カテゴリー「東洋医学」の記事

腹証の歴史と意義

腹証の歴史と意義

一般に言われているように、漢方医学の診断法には望診、問診、問診、切診の四種がある。腹診はこのうちの切診に含まれる。
ところが、難経の六十一難に次のような条文がある。

『望んでこれを知る、これを神という。聞いてこれを知る、これを聖という。問うてこれをしる、これを工という。脈を切してこれを知る、これを巧という』

ここでは切診とは脈診のことになっている。腹診が抜けているのだ。では古典書物に腹診の記載がないのだろうか。確かに素問、霊枢、難経、傷寒論、金匱要略には腹診という文字はなし、特に素問と霊枢では望診と脈診が強調されている。

しかし素問の気厥論第三十七に「按腹」という文字がある。その他の篇にも、腹部の症状が記されていて、これを按じて云々という条文がある。

霊枢の邪気臓腑病形第四や百病始生第六十六にも「手を以てこれを按じ・・」などの文字が見える。

難経になるとさらにはっきり記されていて、十六難には腹診部位とその方法が記されている。(図1)

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『肝脈を得ればその外証は潔きを善のみ、面青く、善く怒る、その内証は、臍の左に動気有りこれを按ずれば堅くもしくは痛む』一部だが以上のような条文である。

また、五十五難と五十六難には積聚のことが記されている。(図2)

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八難には腎間の動悸、ということが記されている。(図3、4、5)これらの図は難経などを参考にして、和久田叔虎が作成したものである。

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これらの事から考えても、古代人が腹を診ていたことは間違いないと思う。ところが、現代に至まで、中国では腹診があまりなされていない。日本ではどうであったか。もちろん文献も残っていない。

大塚敬節は『腹診考』という論文の中で、腹診の歴史について詳しく論じている。それによると、日本では鍼灸師を中心として腹診が発達したようである。源流は禅僧である夢分斎あたりだが、その夢分斎に鍼を教えたのが多賀薬師別当法印見宜白行院という人である。したがって夢分斎はその時、腹診も同時に習った可能性が強い。ところが、この白行院も二、三の流儀を取捨して腹診法を創ったという。そのまえは不明である。

いずれにしても室町時代以後、素問、霊枢、難経の諸条文を論拠とした腹診が行なわれこれを大塚は難経系の腹診と言った。さまざまな古書物が残っている。

多くは腎間の動悸や虚里の動(胸の動悸)の重要性を強調し、十六難の腹診を基礎とした。また募穴を腹診部位として用いている。その意味では大同小異なのだが、腹部に配当された臓腑の診断部位には少しずつ違いがある。代表的なものに夢分流の臓腑配当図がある。

現在も一部の鍼灸師によって、夢分流やその他の腹診が行なわれている。しかし湯液古方派のような発展はしていない。
それには次のような理由が考えられる。

鍼灸の場合、胸腹部の経絡経穴が診断及び治療部位になる。そのためことさら腹診として強調する必要がなかったのではないか。

素問などに腹部の症状が記されてはいるが、傷寒、金匱のように治方の指示がない。そのため実証性に欠ける。いくら腹診しても、それが確かめられないのでは不安だ。そのため発展しにくかったと考える。

これは杉山和ーも指摘しているが、腹部の臓腑配当にこだわるあまり、経絡を無視する傾向にあった。経絡の虚実に結びつかない腹診では、いわゆる経絡治療には適さない。勢い脈診を強調することになった。

一方、傷寒論と金匱要略を中心とした腹診を、大塚は傷寒論系の腹診と言った。
これを提唱した先駆者は後藤艮山である。艮山は腹証だけでなく背証も診た。艮山についで傷寒論系の腹診を発明したのが、有名な吉益東洞である。

東洞は次のように言った。
『腹は生あるの本、故に百病はここに根ざす。これを以て、病を診するには必ず腹をうかがい、外証はこれにつぐ。証を先にして脈を先にせず、腹を先にして、証を先にせざるなり』

そうして、万病一毒説を唱えた。腹証はすべて毒の現われだ、というのである。

例えば、東洞は薬徴の中で、
『人参は心下痞堅、癌硬、支結を治する』と言った。

一般に補剤だと言われている人参まで、毒を治する薬にしてしまった。これはなぜなのか。もっとも、彼が主に用いたのは竹節人参ではあるが。

傷寒、金匱に記されている腹部症状には治方が指示されている。つまり実証性がある。だから患者を診て、心下痞があった時に人参を与えて治れば、人参は心下痞という毒を治したことになるのだ。

これは傷寒論系の腹診の発達した理由でもあるが、東洞はこのようにして、傷寒論に記されている腹部症状を確かめていったのであろう。

東洞がこのような方法で治療ができ、その後も腹診が発達してきた理由がもう一つある。それは傷寒論が外邪による病気の治方を記した書物だったからだ。

病気は精気の虚によって起こる。これは素問にも傷寒論にも通じる原則だ。だから経絡治療家は、まずどこが虚しているかを知ろうとする。湯液家でも、内藤希哲などは虚を補うことを強調している。これはもちろん大切な事で、虚を補う事から治療が始まる。

ところが外邪による病気は、虚があるから始まったのではあるが、どこかに熱がこもって実の状態になっていることが多い、胸脇苦満も少腹急結もそうである。この実の部分をいえば毒がある事になる。そうしてこの実は、はっきり腹証に現われ、虚は腹証に現われにくいという特長がある。そのため東洞流の毒を目標とした腹診が発展したのだ。

この実と虚の問題にもう少し触れておこう。例えば東洞は、芍薬の薬効を、『結実して拘撃するを主治する』と言っている。

荒木性次は芍薬が苦味であることを考え、『芍薬はよくたるみを引き締め、痛みを除くの効あり、結実も拘撃もたるみより来るものと見るべし』と言っている。

これを以てこれを考えれば、要するに薬効には二つの見方が出来ることになる。芍薬の場合で言えば。たるみを引き締める、といった場合は、病気を起こした本質の虚を補う薬、という見方になる。

結実を治するもの、と言えば、実の部分すなわち毒を除く薬だ、という見方になる。

結局のところ、薬物は虚と実を同時に治療しているのだ。このどちらが正しいかと考えるのではなく、両面の考え方を知っておく必要がある。ただし、鍼灸治境の場合は虚実を見極めて、補、潟の手技を使い分けなければならない。

実際の治療を考えた場合、虚を重要視すると実を見落とす可能性がある。逆に実ばかり眺めていると、補うことを忘れてひどい眼にあう。ただ言えることは、現代医学の病名がつくような病人は、実がどこかに隠れていることが多い。これを診っけないと治療効果が上りにくいし、失敗することがある。そうしてそれは、腹診によって発見されやすいのである。しかし、腹診をしない場合は虚を中心にして、各薬物はどこかの精気を補うものだ、と考えて研究するのがよい。

なお本書は腹診に脈診を加え、薬物の解説、病因、病理、病症などを述べて、虚と実の両面から解説している。また筆者(小川)の腹証には、四物湯のように虚を中心としたものもある。

さて腹診は東洞以後、その流れを汲む稲葉文礼とその門下である和久田叔虎によって『腹証奇覧」及び『腹証奇覧翼』が世に出され、大いに体裁を整えるに至った。

『腹証奇覧翼』の序文で小川恒得は次のように言つている。

『それ腹は生を保つの本にして、百病はここに根ざす。故に古方を修る者は、証を先にして脈を先にせず、腹を先にして証を先にせざるなり。しかして、腹状を主とするもの有れば、外証を主とするもの有り。医は病の応は脈診に在りと言う。しかれども、留飲家の積衆の脈のごときは、千状万形にして、或るものは無く、或るものは在りて、得て審らかにすべからず。脈の足らざること、以て証するにかくのごとし』

そうして現代に至るまで、腹診は東洋医学を学ぶ者にとって、必要かくべからざる診断法になっている。縁あって日本に生を受けた者であれば、まずマスターすべきは腹診ではないだろうか。

腹証、すなわち腹診によって得られる証は、手で触れることによって得られる素朴な情報の一つである。しかし、診断及び治療の上において、近代検査医学にないものがある。むしろ近代医学に寄与しうる多くの情報を持っている。

例えば、心筋硬塞は腹証から診るならば、ほとんどと言ってよいほど予測できる。すなわち、心下部の腹証を診れば、治すべき抵抗は完全に出来上がっている。それなのに心電図ばかり見ていたのでは、予知も予防も出来ないと言うのが現状だ。これは一種の悲劇である。

眼で見、耳で聞き、手で触れる世界を、もっと忠実に観察しなければならないと思う。
そうしないと、診断、治療のうえで、大きな盲点を無関心なままで放置することになってしまう。ただ腹診の方法など、問題が無いわけでは無しこれについては別の機会に述べる。
(小川新)

臨床 古今腹証新覧

産論・産論翼・読産論 (1977年) 産育全書―復刻版 (1977年)

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瘀血および瘀血関連の腹証について

瘀血研究 第2回瘀血総合科学研究会(1981年)

瘀血および瘀血関連の腹証について

小川新(OGAWA Arata)

目次
1. はじめに
2. 腹証研究の問題点
 2-1)法則性について
 2-2)毒の存在について
 2-3)腹証における時の問題
3. 私の腹証研究法
4. 瘀血および上腹部関連腹証について
 4-1)古典における瘀血腹証の他覚的表現
 4-2)『腹証奇覧』および『奇覧翼』の桃核承気湯腹証
 4-3)桂枝茯苓丸について
 4-4)臍傍抵抗に対する私見
 4-5)腹証の併存性について
 4-6)上腹部ないし心下の腹証について
5. むすび

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Writings[Todo YOSHIMASU]

Writings [by Todo YOSHIMASU]

為應見耳大表
   吉為則書

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These are writings by Todo YOSHIMASU[吉益,東洞] regarding his theory of body fluid pathology, namely that all diseases are caused by one poison,  .which he no doubt transmitted to his pupils. He expounded the theory that body fluid becomes poison upon becoming stagnant, that all diseases and symptoms are related to or derived from this poison, and that an external evil not accompanied by this poison would cause no illness though it may attack.

Nangai YOSHIMASU[吉益,南涯] (1749-1813), his son, modified this theory and advanced the concept of spiritual matter, blood, and water.
According to his theory, water exists near the surface of the body and blood in the deep region. The spiritual matter is formed in the stomach from food, reaches the heart and blood and water are circulated throughout the body by spiritual matter. It was maintained that poison develops when this circulation ceases or reverses or becomes excessive or insufficient. That is, he established the theory of body fluid circulation.

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Todo Yoshimasu as a Student

"Commemoration of Todo YOSHIMASU"

Published on 10 November 1973 in commemoration of the bicentenary of Todo YOSHIMASU

Todo YOSHIMASU as a Student

                    Yasuyoshi NISHIMARU[西丸,和義], M.D.

Students are truth-seekers, who pursue truth or what is correct persons who continue to proceed toward this goal all through their life.

Students, therefore, should continue to have a desire and a strong enthusiasm to seek truth. They should be mentally prepared,  that is,  have a philosophy,  for this cause. Students document for posterity what they have pursued all through their life. Their course of life should strongly influence their juniors and serve as a guide to people of other fields of science as well. These would be people who are called top-class characters from the world-wide point of view.

If we should seek such a man among the Japanese, he would be no other person than Todo YOSHIMASU[吉益,東洞] himself. This is clear from the complete collection on Todo and other books by Shuso KURE[呉,秀三] and Yu Fujikawa[富士川,游], the pioneers of Geibi[芸備] Province[today Hiroshima Prefecture].

Seeking truth

With reference to seeking what is true, Todo[東洞] stated, “Neither heaven nor sage exist without truth.”

Enthusiasm

As to his enthusiasm for seeking truth, when at the age of 42 years he fell into needy circumstances with his rice box empty and having his parents and younger sister to support, he declared, “It is destiny whether we become poor or wealthy,  and nothing we need worry about. If Heaven really does not want to lose medicine, it will never allow me to starve to death. No matter how poor and needy I may become, I will never give up my intention and disgrace my ancestors' name,” and he further stated,  “Even if I may starve to death, I would be quite satisfied if my principle is accepted in this world.” This reminds us of the following accounts of seniors. When Galen(130-210) was ordered by the Roman Emperor to accompany him to the field of battle, he refused this order, saying, “I am now experimenting on the spinal cord.” Pavlov(1849-1936) of Russia,  after all his assistants ran away as street battles began in the midst of the Revolutionary War, continued his experiment alone in his deserted laboratory, saying, “I am making a revolution myself.” The accounts of these seniors' enthusiasm for pursuing truth are perhaps the same as the accounts of Todo's enthusiasm. This shows how ardent his enthusiasm for seeking truth was.

When he was at the bottom of poverty and making dolls as a side work to barely eke out a living, Mr. Murano and other friends, unable to look on at his needy plight with indifference recommended him to Lord Sakura as his family doctor and he was accepted. They joyfully reported this to Todo but he refused,  saying, “Now I know you do not know me.” He is also reported to have said,  “I am practising and enjoying what is morally right. Why should I worry about my poverty?” This is like the following account of Dr. and Mrs. Curie of France. When they were carrying on experiments in a gloomy cellar of a night school in Paris with no regular occupation, the Geneva University saw their actual state and proposed to invite them to its completely equipped laboratory as professors, which they refused, saying, “This is the best place for our study.” Here we can see how Todo had lived making life as a student his first principle.

Mental attitude

The mental attitude for seeking truth, or philosophy for study, in his case,  is “Study of ancient lessons will help us to gain something useful.” For instance, perusal of his book “Kosho-igen[古書医言]” (Medical sayings in ancient books) shows that he seemed to have gained much from old Chinese books, especially “Roshi Shunju[呂氏春秋]”(chronicles of the Lȕ clan) and Tso's Henjyakuden[扁鵲倉公列伝] (Biography of Henjyaku[扁鵲], a noted doctor).

However, in order to succeed to the old tradition and make a step forward from it,  he had a philosophy for study,  which was, “If we stick to books too much, we will never in our life master the art,” “Nothing is acceptable unless confirmed by own experiments,  or “Preference for experimentation.” This mental attitude of his is similar to that of students in the days after Vesalius in the 16th century who took the lead in the Medical Renaissance in Europe. Harvey stated, “We should clarify truth by our own experiments, not from others' books or papers.” Jenner discovered the method of vaccination with this same mental attitude. The tradition of the Physiology Department, Cambridge University of England is “See and Do.” Six Nobel Prize winners have so far emerged from the department by this tradition, which is nothing but “Preference for experimentation.” From this, we can appreciate how great Todo’s philosophy for study is.

Documentation

The theory he thus gained was “All diseases are caused by a single “poison.” Drugs are all poisons. “Poison” is controlled with poisons. Our body becomes healthy by purging “poison.” Use of drugs does not serve to increase energy. What more is there to be said?”

Priest Honen left documented 2 days before death what he had pursued all through his life of 80 years. There is a western proverb that says “Our grave-post shows our words.” Claude Bernard(1878) said, “Life exists by homeostasis of extracellular fluid.” Like these, Todo's documentation is also very splendid.

Guidepost

This life of his served as a guide-post for his juniors not only during his life but also for 200 years after his death, as the following shows.

In guiding his pupils, he used to say, “You should not be bewitched by the fox of Chukei” and warned them not to swallow indiscriminately the writings and words of predecessors. He even said, “Don't observe the words from Yoshimasu's tongue.” These are wise words for his pupils to follow.

The “Ruijuho[類聚方]” (Medical Methodology of Collection and Classification) he wrote for people other than his own pupils became a best seller of the day. Some parts of it have been reprinted in China to serve as a “Bible” for Chinese medicine. Among the doctors who made original studies in the age of Edo,  Seishu HANAOKA[華岡,青洲],  who is internationally famous for his study on anesthesia, is a pupil of Nangai YOSHIMASU[吉益,南涯] who succeeded to the tradition of Todo. He perhaps succeeded in his scientific experiments because he learned Todo's study philosophy through Nangai[吉益,南涯] and was influenced also by western medicine.

Recently, Shuso KURE[呉,秀三], Yu FUJIKAWA[富士川,游], etc. studied Todo[東洞] and many people must have shared the recollection of Shuso KURE[呉,秀三]. who said. “After aspiring to study medicine, I have always admired Todo's[東洞] spirit and enterprise.”

The fact that votive offerings totalling 6 million yen were immediately collected in this plan to erect a monument to honor Todo YOSHIMASU[吉益,東洞] shows that even now there are many people who admire his character and look up to him as a leader.

From the above-stated, it can be said that he is a precious guide of life for not only those studying medicine but also those making other pursuits in life.

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Weblinks

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昨今の“東洋医学界”

昨今の“東洋医学界”

過去のエントリーより抜き書きです

矢数道明先生を偲ぶ” より

約三十年前から日本の東洋医学界は、製薬会社としては当然の利益追求型経営戦略=簡便に薬を処方する術をマニュアル化し、一方でそこそこの権威者をつく り彼らを利用し販路を拡大=に多くの医師を巻き込みあるいは(医師)自ら巻き込まれ、烏合の衆の泡沫漢方の道を辿り『証』(仕様)のない漢方を助長するに至った。

 しかしこれは治療者たる医師らに専ら責任があるのです。

 このような状況のもと日本東洋医学会は肥大化していくが、学術内容は次第に低下し、心ある漢方家の憂慮する時代に突入し、本日のごとき凋落の歌が聞こえるようになってきました。・・・・・・

by ささふね

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肝疾患の臨床_特に肝癌・肝硬変

『漢方の臨床』43巻6号,1996年

肝疾患の臨床_特に肝癌・肝硬変

小川新

■序
 肝癌は漢方的に言うならば肝積にあたるが、それは悪性腫瘍と称するほうが理解し易い。慢性肝炎も肝硬変→肝癌というパターンが最も多いが、肝癌としてはじめから、慢性肝炎を経過することなしにおこす原発性肝癌は少ない。私達の臨床的経験から類推するに最も多いのは、肝炎、肝硬変から移行した続行性肝癌である。
 次に多いのは、転移性肝癌である。胃癌・大腸癌・直腸癌・胃癌・前立腺癌・子宮癌・卵巣癌等であるが、これら続発性癌ないし転移性肝癌についての臨床弁治の実際を報告し、御参考に供したいと思います。

■肝癌の予防について
 これはいかに肝硬変を治療するかにかかわっている。
 その随証療法が完全であればあるほど肝癌になりにくく、不完全な随証療法の下では、肝硬変も治癒しないし、肝癌の予防にも役立たないわけである。
 現在日本で行われている肝硬変の治療には、次のようなものがある。

A、一般的随証療法
 代謝性肝硬変・非代謝性肝硬変でも、その治療方剤は大体下記のごとき方剤の範囲に限られている。即ち補中益気湯・茵蔯五苓散・小柴胡湯・桂茯丸・加味逍遥散・小柴胡湯合茵蔯五苓散・十全大補湯合茵蔯五苓散・補中益気湯合人参湯・六君子湯・人参湯等である。

B、私の随証療法
 ここ(上記の一般的随証療法)に不足する方剤は、
1)柴胡剤としては、柴胡疎肝湯加減、四逆散加減、
2)駆瘀血剤としては四物湯加減、当帰芍薬散加減、大黄牡丹皮湯、血府逐瘀湯、
3)清熱利湿剤として龍胆瀉肝湯加減、半夏瀉心湯加減、小陥胸湯加減、黄連湯加減、
4)利水剤として胃苓湯加減、補気建中湯加減、補中治湿湯加減、紫円、
5)附子の入ったものは、真武湯、茵蔯四逆湯、茯苓四逆湯、
6)駆瘀血薬について、当帰・芍薬・柴胡・丹参・三稜・莪朮・別甲・延胡索・紅花・桃仁・乾地黄で活血軟堅するのである。
私の日常臨床に於ては、肝硬変、肝癌には、三稜、莪朮を多用して効果をあげている。その実際を述べたい。

C、補脾胃について
 肝癌治療において忘れてならないのは、『金匱要略』では「上工は未病を治す」とあるように肝剋土即ち肝病が脾胃の機能的衰退を来せば治らないことになるので充分そこを配慮しなければならない。そのためには六君子湯、人参湯、補中益気湯、などを用いることになる。そこでも三稜、莪朮のような活血化瘀薬を用いる必要がある。

■〈症例報告〉弁証論治の実際

【症例1】OT、男
初診:平成5年11月14日
既往歴:1歳時、膿胸、20歳時、肺炎で死にかけた
現病歴:8年前から糖尿病といわれ、血糖値は200前後で血糖降下剤を服用している。
約5年前検診で肝炎といわれ治療していたが、最近6ヵ月間に体重が3・4㎏減少し、下肢しびれ感、耳鳴り、口渇、肩凝りがある。最近GOT 74,GPT 97,LDH 339、ALP 204、γ-GTP 186、硫酸亜鉛 112.4、チノール 4.5、総コレステロール 143
脈証:右寸関尺は弦であるが、左寸関尺は微細である。
腹証:図1の如く、肝腫大は右肋骨弓下に三横指、脾臓は左肋骨弓下に一横指腫大している。小腹不仁がある。

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治療:四逆散6gに八味丸3gを併用し様子をみていたが、3ヵ月後には肝臓は4.5肥大、脾は2.0横指大に肥大、右脇腹の疼痛がひどくなってきた(図1)。 しかも、肝臓のふれる部分では硬い凸の部分があり、肝癌を考えた。そこで方剤は四逆散加延胡索3.0、茯苓3.0、白朮3.0、莪朮3.0、三稜3.0を6週間投与した。6週間後には肝腫大は1.5、・脾腫大は1.0となったが体重は減って、全身倦怠感を訴えるので、補中益気湯に莪朮・三稜に転向した(図2)。

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この処方を15週続けてみたが再び右脇腹痛を訴え、夕方足が腫れるというので腹証してみるに、肝は4横指、脾は3横指大に腫れていた(図3)。そこで八味丸3に四逆散・茯苓4・白朮4・莪朮3.5・三稜3.5・延胡索3を投与したら4週後には肝は2横指人に、脾は触れず、足のしびれも取れ、腹痛も取れ、常に調子が良いということである(図4)。

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 要するに、
1)初めのエキス剤では効かなかった。
2)四逆散加莪朮三稜の煎剤はよく効いた。
3)補中益気湯加減の補剤を中心とした場合、完全に悪化した。
4)補中益気湯で調子のよくないことは腹証及び自覚症に現れたことである。漫然と補剤を投与してはならないことを痛感した次第である。

【症例2】30歳の肝癌疑(インターフェロン治療後)、男性
初診:平成5年(1993)年12月
現病歴:
昭和62(1987)年4月、インターフェロン600万単位
平成3年(1991)600万単位
平成4年(1992)600万単位
と3年間にわたりインターフェロンをやり、強力視ミノファーゲン注射もしたがGOT 1300になったりして余りきかなかったという。
平成5年2月超音波で1cm大の腫瘤が2個ありといわれ、アルコールブロック注射をすすめられたが、どうも信頼できないというので来院した。
脈証:左関と尺は沈細なるも、右寸関は弦である。右尺はやや沈である。
腹証:図の如く右左肋骨弓下は少し抵抗がある。しかし、下腹鼠径上部特に左側に於て圧痛と抵抗がある。右側にも少のである。11ヵ月の肝機能検査ではGPTが92であった。腹証は図の如く右肋骨弓下には少し抵抗が残っている。左下腹し圧痛がある(図5)。

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弁証:脈で左関尺が沈細であることは、肝腎の虚証を意味しているが、腹証で上腹の抵抗は柴胡の証があること、下腹は定型的四物湯証であるので、四物湯に柴胡3g、さらに駆瘀血薬として桃仁3g、莪朮3g、を投与したら約6ヵ月後にはGOT 32,GPT 59と正常になり、γ-GTP 16、硫酸亜鉛 12.6、チモール 2.7、コレステロール 166というように殆ど正常化した。
 この処方を服用すること約1年後、超音波検査では何もないということになった。腫瘤の映像はなくなったという部、鼠径上部は腸骨前上棘に近く圧痛が残っている(図6)。
 脈証は左関が少し弱いのみで、他は正常に近い脈であった。この腹証によりこの処方を更に2・3ヵ月服用すれば完全治癒ということになるだろう。

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【症例3】男、51歳
初診:平成6年6月14日
現病歴:平成6年末、軽い黄疸あり、右上腹部痛があった。
平成6年1月C・T検査で肝癌と診断された。
平成6年3月肝癌の手術をうけた。
肝左葉全剔、右葉は癌になりかかっているといわれた。
術後3ヵ月目に来院したわけであるが、心下に痞えがあり、ゲップがよく出るし、時々心下に自覚痛があるという。足の裏はいつも燃えているという。少し口渇あり、排便は1日1〜2回で軟便であるという。
既往の服用薬は、アルダクトン(降圧剤)、カスター(H2受容体拮抗剤)、ウルソサン(肝胆消化機能改善剤)、ナウゼリン(消化管運動改善剤)、ラックビ(整腸剤)
脈証:左寸関尺は微細、右尺は微、右関守は弦、足脈少陰左右ともに沈(+)、ふ陽は左右ともに緊、腎機能をみるに手脈ではかなり減退しているが、足脈は健康に近い。
腹証:上腹部圧痛が著明であり、心下痞硬がある。坐位で1.5横指肝腫大をふれる。下腹は両そ臍径部に抵抗と圧痛がある。両脇胸はつめたいが、心下の中央部及び両胸部では熱感帯がある。(図7)

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弁証
1、曖気
2、心下のつかえ(痞)と圧痛
3、心下の抵抗・圧痛
4、坐位で心下において肝臓腫大1.5横指触知
5、脈証において右寸関は弦で熱をもっている。しかし、左寸関尺は沈細で肝腎の虚衰をしめしている。
1・2・3・5によって半夏瀉心湯の証とみた。また、足裏、熱感と下腹の腹証を参考として、六味丸を兼用することにした。更に制癌効果を発揮するために、莪朮3、三稜3を加えた。これを8ヵ月運用して、調子が良いという。
平成6年5月の腹証(11ヵ月後・図8)
心下の圧痛はまだあり、下腹の圧痛は右側臍腰部に少し残っている。便通は一日1回で良い。これを続けてやるつもりである。CTは最近行ったが、癌は大きくならず、停止したままである。病名にかかわらず、随証療法の大切さを知ったわけである。

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【症例4】男、74歳
初診:平成5年3月10日(1993年)
現病歴:昭和60年(1985年)脳血栓で、右半身が麻痺したが、3ヵ月後に回復した。昭和63年(1988年)大腸癌の手術をした。しかし、平成2年(1990年)には肝臓と肺に癌転移したので、肝の左葉全摘と肺の部分切除を受けた。平成3年(1991年)肝の右葉に転移したので、手術を勧められたが断り、制癌剤を服用していたが、漢方治療を求めて来院した。
主訴:右胸脇下部に抵抗と鈍痛あり。肩こり、腰痛、膝関節痛、喘息様症と咳嗽、夜尿2回、白内障もある。
脈証:左寸関尺は沈細、主尺も沈細、左寸関は弦となっている。
腹証:左脇胸部に抵抗あり、半坐位で、触診するに肝は右葉1.5 横指硬く腫大している。圧痛もある(図9)。

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経過:この肝腫大、圧痛により、四逆散加伏苓4、白朮4、更に除痛のために延胡索3を加えた。これを約14週投与した。しかし、1993年8月に血圧172−96というふうに最低血圧も高く、後頭部痛があり、脳血栓という前歴もあるので、八物降下湯に菊花・貝母・莪朮・三稜を加え、八味丸3を兼用したら、約12週後(平成6年7月)には、162−88となった。しかし眼の充血と流涙があり、頭の湿疹が治りきらないので、明朗飲に茵蔯蒿3、莪朮3、丹参3を加え、これに調胃承気湯を兼用して今日にいたっている。C・T 検査では右葉の腫瘤は大きくならないで、癌の進行は停止している。肺には転移はない。

【症例5】58歳、女性
初診:平成6年5月20日(1994年)
現病歴:25年前、胃ポリープで出血したので、胃切除を受け輸血したが、血清肝炎をおこしたという。その後、家事に忙しく元気であったので、検査も受けず肝炎したことも忘れていたのが、平成5年末から風邪が治らず、時々咳があったが、非常に疲れ易いので、平成6年5月、呉市の某病院で検査をうけたところ肝臓が腫大していることが分かった。早速、主人の勧めで漢方治療を受けるべく来院した。
現症:体格は少し痩せているが、筋肉質で丈夫そうな体格である。舌は真っ赤であり、熱をもったようになっている。
脈証:左寸と右尺脈は沈細である。右寸・関、左尺脈は弦である。左右小陰脈は沈(−)、左右趺陽は緊(+)である。
腹証:図の如く肝腫大あり。正中線で10 cm、右肋骨弓下で8cmという風に著明に腫大している。下腹は恥骨上部は縦に2本の抵抗がある。胸には図の如く右乳、左乳に熱感帯がある(図10) 

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X線所見:右肺門部は大きく腫大している。骨盤のうち、左腸仙関節は変形がひどいが腰椎4・3には少し変形がある。
弁証論治:胸のX線所見によれば、肺門部は大きく腫れている。おそらく肺門部リンパ腺の腫張が著しいことを示しており、風邪のこじれがすでに6ヵ月に及んでいることから、このねばい痰が喉にかかり易く、睡眠も充分にとれないので、まずこの慢性気管支炎を治すことに主眼を置き『寿世保元』の竹茹温胆湯加減を投与することにした。柴胡3、竹茄3、茯苓3、麦門冬3、半夏5、香附子2、桔梗2、陳皮2、枳実2、甘草1、人参1、黄連は1.5に増やし、莪朮3、三稜3を加えた。3週間後、咳はとまり、痰が少なくなったが、肺門部腫脹所見は短期間では治らないと見て、この清熱去痰、活血化瘀剤を長期に投与することにした。即ち12週(約3ヵ月)連用した。肝腫大は肋骨弓下7cm、正中線8cmという風に小さくなってきたが、食欲はあるが食後胸の圧痛感があるというので、四逆散に茯苓・白朮・莪朮・三稜を加えて肝臓主体の処方にかえ、食後には苓桂朮甘草エキス9g、または竹茹温胆湯エキス7gを兼用することにした。
 かくして13週後には正中線は最初10cmであったことをみれば、7ヵ月足らずで正中線7cm、肋骨弓下5cm大と小さくなり驚いたわけである(図11)。下腹には小腹不仁があるので、八味丸3gを兼用し、完全に健常になるまで投与を続けるわけである。
考案:この肝硬変がこのように順調に投与方剤に反応して劇的に治癒の方向に向かっていったことは何故であろうか。それは、投与方剤の随証療法が比較的適切であったといっても、それはむしろ、永年、医療を受けないでつまらない肝炎治療による壊病的なものがなかったことが幸いしたのではないかと思っている。 

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【症例6】男、51歳
初診:平成4年3月14日
現病歴:大酒家で1本のウィスキーを2・3日で空にするという。酒を飲まないと眠れないという。1年前肝炎があるといわれた。昨年秋からアレルギー鼻炎でよく鼻水が出ていた。東京の友人も同じように鼻水があり、葛根湯エキスを服んだらよく効いだということを聞いて自分もこの葛根湯エキスを3ヵ月間毎日販んでいるが服んだとき、ちょっと鼻水がよかったので続けて飲むつもりでいた。しかし、彼の妻がこの主人が次第に痩せていき、食欲もなくなり、1日3回下痢様便を出しているのをみて、心配になり、東京のメーカー本社にこの症状を相談したら、当医院に相談しなさいということで訪れた。
現症:やせ型の活気のない、いかにも冷え症のような顔をしている。
脈証:左関・尺は沈細、右寸・尺も沈細となっている。右関と左尺は陽気が残っており、弦脈を呈している。
腹証:心下正中では3横指、右肋骨弓下で1.5横指肝腫大がある。下腹正中は小腹不仁であり冷たい(図12)。
弁証論治:下痢及び下腹冷感によって、真武湯を投与することにした。附子は1gである。これを連用するうちに1年半、肝腫大は正中線でふれなくなった。γ-GTP以外は正常になった。 

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【症例7】女、昭和9年4月生まれ
初診:昭和62年9月9日
現病歴:2年前からGOT 204、GPT 288であり、慢性肝炎といわれている。風邪のために抗生物質を5年間断続的に服用した。1カ月位微熱と咽頭痛がつづいたが、お灸で治ったことがある。今、自覚症状は余りないようだが、仕事をすれば疲れやすいという。
治療及び経過の大要
 初診から2年8ヵ月間即ち1990年5月に超音波で肝硬変といわれたがGOT はいつも100〜300、GPT 200〜600前後で安定せず、治療も効果も充分でないので悩んでいた。今、その迷いの処方内容を順次紹介してみたい。
 小柴胡湯加桔梗茵蔯蒿・加味逍遥散・小柴胡湯合当帰芍薬散・甘草瀉心湯、補中益気湯・増柴胡4.5・加霊芝3.0・山梔子2.0などそのときの証に応じて方剤を処したわけであるが、患者の自由意思で或る大病院で超音波エコーをとったら、肝硬変ありといわれたという。この時改めて腹証したところ、図の如く肝臓は正中線で2横指、脾臓も1横指腫大している(図13)。以来、ただの肝炎という考えを改めて肝硬変のつもりで治療することにした。
 しかし、その処方にも色々と迷いがあった。
1)四逆散加茯苓3、白朮3、霊芝3、別甲3、
2)四君子湯加別甲2、柴胡3、
3)当帰芍薬散加山梔子、黄連1、黄芩1、莪朮3
などを服用したが、腹証でも全くよくならず、肝臓には凹凸があり、下手すれば癌に移行するのではないかと心配して、改めて脈証をみるに左関と尺脈が微細である。これは初診以来変化していないことは腹証に於ても治らないことに気付き、改めて肝虚を捕しながら、清熱し駆瘀血することを確認したわけである。 

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 そこで、1993年7月、六味丸を兼用し、当帰芍薬散加莪朮3.5、柴胡3、黄ゴン1.5、決明子3、山梔子1.5という処方を約10ヵ月間服用している。脾もふれないで肝もわずかにふれるのみとなっていたが、その頃3年ぶりで超音波検査を受けたところ、エコーでは肝が正常化しているので、担当医から何をしにきたかと問われたという。患者日く、「3年前に肝硬変と言われたので、その後ずっと治療してきたのです」と。このような押し問答があったと言うので驚いたわけである。私から見れば、この3年間のうち、肝肥大、脾肥大が正常化する方剤を出したのは半年足らずであったわけである(図14)。これでやっと方証相対の処方構成になったのではないかと思ったのである。
 ただ、本人持参の超音波検査報告書を見るに、右腎に直径1cmの嚢胞があるという。この肝病が腹証・脈証に於て、非常に難治性であったのは、この腎疾患があったからではなかったか。昔から肝病治療にはいつも腎機能を配慮する必要があると聞いていたが、この腎嚢胞の存在による腎機能障害が治療をさまたげていたのだということがわかったわけである。
 このようにみてくると、この治療方剤は変える必要がないので、現在もこの六味丸合当帰芍薬散加減を服用し、元気でいる。 

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◎方意について
1)六味地黄丸は、熟地黄・山茱萸・山薬・茯苓・沢瀉・牡丹皮の六味であるが、腎陰虚に用いる。肝血虚に用いる熟地黄に山茱萸を配合して肝腎を補益し、茯苓と山薬で健脾利湿し、牡丹皮で涼血清熱し、沢瀉で利水する。
2)当帰芍薬散の当帰は補血と滋潤の作用があり、芍薬6.0は血虚を補い川芎3.0も血を補い、気をめぐらす。それに、茯苓4.0白朮4.0を加えて、脾胃の水をさばき、沢瀉4.0で利尿する。一般に冒眩・心悸・小便不利を治するが、この患者の腹証には下腹即ち右回盲部・左S字状部に浮腫性の抵抗がある。これが当帰芍薬散の腹証である。この当帰芍薬散に清熱薬即ち柴胡3、黄芩1.5、山梔子1.5、決明子3を用いたのは何故か。
 この患者は時々パーッとあつくなったりすることが多く、初期には牡丹皮・山梔子の入った加味逍遥散を多用したが、眼も充血し易く、山梔子のうえに更に決明子を加えた。
私は心病・肝病を治すときには眼の充血を見逃さないように、この眼と心肝を一体のものとして弁証することにしている。これに莪朮3.5を加えたことは駆瘀血の働きを強めるためにであった。

◎莪朮・三稜の薬能について
1)莪朮について
辛・苦・気・温で肝経の血分に入り、気中の血を破るといわれている。肝経の聚血を通じ、瘀を消し、通経開胃化食解毒すといわれ、破血行気薬として補脾胃薬を加えて用うとなっている。東垣は肝に限らず、心・肺・脾・腎の積にも三稜といっしょに用うとなっており、小生もこの東垣に準じた用い方をしている。特に肝癌に於ては、莪朮・三稜をいっしょに用いている場合が多い。
2)三稜について
苦・平・肝経血分に入り、血中の気を破る。または、肝経の聚血を通じ、脾経に入って、一切血瘀気結、食停、瘡便老塊、堅積を散ず、となっている。
 私は、一切の積・聚・癌に多用し、効果をあげている。

◎癌の疼痛について
1)柴胡疎肝散・四逆散加減(行気正消)
疼痛のひどいときには、これに延胡索を加える。(症例3)
除痛しながら、柴胡・芍薬・延胡索は制癌効果をもっている。一挙両得というべきである。
2)血府逐瘀湯
これには四逆散が入っている。(血瘀阻滞)
3)導痰湯・半夏白朮天麻湯(健脾燥湿・化痰止痛)
4)黄連解毒湯(熱毒による)
5)八珍湯・附子理中湯(益気養血、温補脾腎)

■総括
1)肝癌の予防は、肝硬変を予防すること、又肝硬変を出来るだけ完全な随証療法をして癌化しないようにすること、漫然と治療していては予防にはならない。
2)現在のエキス漢方を中心とした場合は、完全予防にはならない。
3)駆瘀血薬について、もっと広げる必要がある。私は出来るだけ日本漢方家にとって身近な薬物を用い、中医学の先生方のように多種のものは必要ないように思う。
4)補脾胃を忘れてはならない。
5)症例1は糖尿病と肝硬変で、補中益気湯・莪朮三稜で悪くなり、四逆散加茯苓・白朮・莪朮三稜・延胡索兼八味丸で、肋骨弓下4.5 横指大が、4週間後には肝臓は2横指人に一気に縮小し、脾臓の2横指人は消失し、著効をみた。
6)症例2は肝腫瘤(インターフェロン治療後)腹証は、ことに左右ソ径上部の圧痛抵抗を第一目標とし、四物湯に柴胡・桃仁・莪朮を加えた方剤を投与したが、1年後、超音波検査では腫瘤は完全になくなった。
7)原発性肝癌左葉全摘後、右葉も癌転移疑あり。右葉は心下に1.5横指触知したが、心下痞硬曖気により、半夏瀉心湯に莪朮三稜を加え、足裏熱感を目標として六味丸を兼用した。1年間の短期問ではあるが、少なくとも癌の進行は停止し、体調は良好ということである。
8)10年前に脳血栓、7年前に大腸癌手術。術後2年、肺肝に転移し、肺部分と肝左葉を全摘。しかし、肝右葉に転移、来院した。現在2年間、漢方治療をしているが、肝腫大と圧痛により、四逆散加茯苓白朮延胡索を14週投与し、経過順調のように見えたが、高血圧、頭痛あり、痰も多く、脳梗塞の前兆もあり、八物降下湯に菊花・貝母・莪朮・三稜を加えた方剤を約12週、更に明朗飲に茵蔯蒿3、莪朮3、丹参3を加えたりなど紆余曲折の経過をたどった。最近のCT検査では、肺転移もなく、肝腫瘤も大きくならないで停止している。
9)血清肝炎後20年放置していた肝硬変であるが、6ヵ月前から罹患した慢性気管支炎を竹茹温胆湯加莪朮三稜の随証療法を行い、約3ヵ月後から、四逆散に茯苓・白朮・莪朮・三稜を投与したら、7ヵ月後には肝腫大は半分位になった。
10)アルコール性肝炎にも真武湯証あり、大黄牡丹皮証あり、寒証・熱証の両極端と寒熱爽雑のものあり、証に応じて論治することの重要性を提示した。
11)6年3ヵ月継続治療したが、慢性肝炎は肝硬変に進行し、危うく肝癌に移行するかに見えた肝硬変を薄暮の模索の如き治療でした。証を適格にとらえることに苦労したが、改善していないことに気付き、改めて脈証と下腹の腹証によって当帰芍薬散に柴胡・黄芩・山梔子・決明子・莪朮を加えた補肝・補脾に疎肝・清熱・駆瘀血薬を加えた方剤に六味丸を兼用することによって10ヵ月後には肝硬変がなくなり、肝炎にもどってきた症例である。柴胡剤を中心とした方剤を漫然と投与していたが、2年8ヵ月後のエコー検査では肝硬変と診断され、我が治療の無力さを証明したが、更に模索することに2年余、癌化することを危慎したが、最後は脈証と腹証を見直すことによって一気に軽快していった。

諸賢の随証治療に御参考になればと思い、 小生迷いの軌跡を報告いたしました。

※昨年10月、日中学術交流会議を癌を中心としてシンポジウムを開催したが、上海中医薬大学の肝癌専門家も莪朮、三稜が最も効果ありと言ったので、所は異なっていても、結論は同じであったことに驚いた。

【掲載:『漢方の臨床』43巻6号,1996年】

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瘀血と水毒「水と血の関係」

第11回日本瘀血学会学術総会 (1992年10月)

シンポジウム“瘀血と水毒”
水と血の関係

小川新

水毒という概念は、近世の日本漢方界に於いて、特に強調されてきたように思う。

吉益南涯は、父、吉益東洞の万病一毒説を気、血、水という三証に分けて布衍した「観証弁疑」及び「気血水薬徴」を著した。現代に於いても古方派の日本漢方家に於いては、日常の弁証論治に用いられている概念である。

この気・血・水論を病機としてみるとき、気を中心として血・水の病態像を呈したり、水を中心として気・血の病態像を生じたり、血を中心として気・水の病態像を現わしている。

今、「金匱要略」をみるに、水気に関する病証としては、

  • 痙湿暍病脈証治第二では、湿家の病について述べており、方剤としては、麻黄加朮湯、麻杏薏甘湯、防已黄耆湯、桂枝附子湯、白朮附子湯、甘草附子湯がある。
  • 痰飲咳嗽病脈証并治第十二には、痰飲、懸飲、溢飲、支飲という四飲と夫々の方剤が紹介されているが、水と臓器の関係も述べられている。即ち、水在心、水在肝、水在脾、水在肺、水在腎、
  • 水気病脈証并治第十四には、心水、肝水、肺水、脾水、腎水というように表現されている。

などである。

1.水と五臓の症候

A-1:心水
其身重而少気、不得臥、煩而躁。これは、心不全の状態であり、身が重く陰部も腫れて大きくなり、呼吸困難があり、横に寝ることが出来ない。真武湯。
A-2:水在心
心下堅築し、短気し、水を飲むことを欲せず。これは、留飲というものである。甘遂半夏湯の行く所である。

B-1:肝水
腹大きく、不能自転側、脇下腹痛し、時々津液微に生じ、小便は続いて通じてはいる。これは肝硬変末期にみられるものである。柴胡疎肝湯合四苓湯の行く所か。
B-2:水在肝
肝経の留飲は脇下支満し、くしゃみすると脇腹がひきつり痛む留飲である。
小柴胡湯などの柴胡の方剤の行く所である。

C-1:肺水
其身腫、小便難、時々鴨溏。身体に浮腫があり、小便困難で、いつも鴨の糞のように軟便を排泄する。越婢加朮湯。
C-2:水在肺
吐延沫、欲飲水。肺が水飲に苦しめられるとひきつづいて唾液を吐き、口が渇き水を飲みたくなる。五苓散や甘草干姜湯の証である。

D-1;脾水
其腫大、四肢苦重、津液不生、但苦少気、小便難。脾水を患っている病人は、腹部が膨満し、隆起し、四肢が非常に重く口の中が乾き、津液がなく、息切れして、小便が困難である。実脾飲、補気健中湯の証に近い。
D-2:水在脾
少気身重、身体が沈んだように重く感じ、無理して歩けば呼吸困難を感ずる。脾虚の方剤である。六君子湯、四君子湯、苓桂朮甘湯の証のようだ。

E-1;腎水者
其腫大、臍腫、腰痛、不得搦、陰下湿、如牛鼻上汗、其足逆冷、面皮痩。腹部が膨満し、臍部が腫れて突出し、腰が痛んで、小便をするのが困難であり、外陰部は、牛の鼻の上が汗をかくようにしめっており、足が冷える。顔ははれずに痩せている。八味腎気丸の証である。
E-2;水在腎
心下悸、腎臓が水飲によって障碍されると水気が上逆して心窩部に動悸を感ずるようになる。苓桂朮甘湯、苓桂味甘湯の証である。

又痰飲として、溢飲、懸飲、支飲、寒飲等の分類があり、夫々の方剤がある。風水、皮水、裏水、黄汗など水気に関するものがあるが、これら凡ては、皆水に関することを、五臓六腋や体表に関係してのべているのみで、血との関係についてはのべていない。

2.水と血との関係について

金匱要略の水気篇(239條)

師曰、寸口脈沈而遅、沈則爲水、遅則爲寒、寒水相搏、趺陽、脈状、水穀不化、脾気衰則驚溏、胃気衰則身腫、少陽脈卑、少陰脈細、男子則小便不利、婦人則経水不通、経爲血、血不利則爲水、名曰血分

解釈

寸口の脈象が沈んでいることは、水気の病であることを示しており、遅であるのは、体内に寒邪があることを示している。寒邪と水気が一緒にあれば、趺陽の脈が代脈となる。脾気が衰え、飲食が消化出来ないのでアヒルの糞のように水分の多い便が出る。胃気も同時に衰えているので、水邪のために身体に浮腫を生ずる。趺陽の脈を骨に至るまで深くおさえてはじめふれる脈ということは、胃気と脾気共に衰えて水気の病をなしていることを示している。

さて、次の節は、「少陽脈卑、少陰脈細」となっている。この少陽の脈卑とは何を意味するのであろうか。私は、これは、手の小腸即ち寸、関、尺のうちの関脈が強大のようにみえても深く沈めて脈をみれば孔のように無力なものをいう。即ち、この卑脈は革派のことを言っているように思う。又足の少陰脈は細であり、腎気が衰えていることを示している。肝は手の関脈で肝虚を示し、腎は足の少陰脈で腎虚を示していることを教えている。何故、手の尺脈で腎虚を言わないで、足の少陰脈を証として登場させたのであるかという疑問が残るはづである。それは、私の多年の手脈、足脈の同時観察によれば、脾気は足の趺陽で、肝気は手の関脈で、腎気は足の少陰で診察することによって、脾、肝、腎の虚証を辮証しないと手脈だけでは、誤り易いことが多い。一般に日本及び中国共にこの足脈のこと、人迎のことを無視している。

次に「男子小便不利」というのは、男子の性ホルモンの機能が衰えていることを示し、「婦人則経水不通」は、生理不順ないし無月経であることを言っている。即ち、肝血が衰えて水気の病になっているが、病機から見れば、病因は血分の病ということになる。

この條文は、脾胃の虚証からきた水気病と、肝腎の虚証からきた水気病の違いを教えているものである。後段の文は肝血の病から発した水気病を教えている。脾胃の病であればこれ対する方剤を選択する。脾胃の病でおこった水気病の後に月経がなくなった場合は、脾胃を治療すれば、月経のような血の病は自然に回復する。若い女性でも、六君子湯を投与することによって5年振りに生理が恢復した症例があるが、これは、現代婦人科学の大きな盲点ともなっている。婦人科専門医が血分を中心としたホルモン学の不備に気付いて学習なさるようお願いするものである。

先述の水気篇にいう血分の病態像を我々は瘀血と呼んでいる。大切なことは、瘀血があって水気病をおこしたり、水気病によって瘀血をつくることもあるので、脈証をみる上でも、手脈のみならず、足の趺陽や少陰の脈が必要となってくるのである。それ故、張仲景師は、傷寒卒病論集の序文に於いて、「按寸、不及尺、握手、不及足、人迎、趺陽、三部不参……」という風に警鐘を鳴らしていることを想起して欲しいものである。

3.三焦論について

霊枢本輸第二には「三焦者、属腎、腎は上肺に連る。故に両臓を将とす。三焦者中涜之府也、水道出づ、膀胱に属す。これ孤之府也。是六府の所と合するもの」又、素問、霊蘭秘典論には、「三焦者、決涜之府也。水道出づ」とあるが三焦は膜原(医学正伝)を指し、上は肺・心に連なり、中焦は脾・肝に連り、下焦は腎・膀胱に連なり、各臓腑や膚表にまで影響している。

この水道に最も関係深いものは、体液即ち組織間液であるが、このような水の動きを霊枢経水編第十二には、「経脈十二者、外合十二経水、而内属於五臓六府・・・夫経水着、受水而行之、五臓者、合神気魂魄而臓之、六府者、受穀而行之、受気而揚之、経脈者、受皿而營之・・・」、また「此五臓六府十二経水者、外有源泉而、有所稟、此皆内外相貫、如環無端、人経必然」とある。

前述経水篇の言わんとする所は、経脈即ち現代医学で言う血液循環に近いものは、内部では五臓六腋に属しているが、それは外、十二経水と一緒になって五臓六腋に属して機能しているのだというのである。今、五臓六腑を中心として経脈を考えるときは、経水を忘れてはならないというのである。

4.組織間液について

私は古典でいう経水を現代医学に於ける組織間液という風に考えているので、五臓六府の循環は、組織間液を忘れては成り立たないと思っているが、これを現代生理学者として最初に提唱されたのは、故広大名誉教授、西丸和義(やすよし)氏である。

西丸氏はその著、「脈管学の基礎(体液循環の概念)」(1970年マイライフ社 出版)で、

「ハーヴェイの血液循環の概念では、心臓は中枢で、末梢は毛細血管である。しかし、体液循環の立場からは、末梢は組織間すなわち結合織、組織腔、器管溝である。体液とは、血液、組織液、リンパ液のことで、これが心臓から心臓へと脈管と組織間を流れ、全身を循環するものである。この流れは主として心臓ならびに脈管壁とその周囲組織との収縮性に基因する水力学的圧差ならびに膠質滲透圧による体液の流れにほかならない」

と述べている。

この西丸学説はこの経水の世界を完全に証明したとはいえないまでも、漢方家や、針灸家が経脈や臓腑に偏って観察し、他方現代医学者が、大小循環、微小循環のみに偏って観察治療しながら、誤った治療医学を構築していることへの警鐘である。

【注】西丸和義: 広島大名誉教授/日本脈管学会の創設者/医博/平成2年5月15日卒/参照:「医人伝」広島医学Vol.57,No.7,2004/西丸和義先生と小川新に関する記事:広島市医師会HPから[PDF]

 

5.三焦図について(図1)

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これは、経水が、経脈と一緒になって、心、小腸、肺・大腸の上焦、肝・胆、脾・胃の中焦、腎・膀胱、命門・相火の下焦に働いている生理機能を表現したものである。五臓六府の寒熱を考える際に必要缺くべからざる経水の世界を三焦という概念でまとめたものである。

この通路を古典医学では、膜原(医学正傳)と言ったが、私は腔、溝、結合織、脈管周囲腔のような組織間であり、ここに体液流があるという風に考えているものである。

この三焦と臓腑との関係を古典的表現法で説明するならば、次のごとくになる。三焦は五臓六腑と連系し、上・下・左・右に交通する組織間液の通路である。邪 が表から入り、三焦を経由して臓腋に内伝し、心⇔肺、肝⇔脾、腎⇔命門という風に横方向に伝変するものと、又、邪を上に受けると、三焦を経由して次第に下 方に向い、又、中焦、下焦から上方に向い縦方向に傳変するものとがある。則ち縦方向の形式は、上焦⇔中焦⇔下焦⇔上焦⇔....という風に伝変するもので ある。
中焦下焦この図は、円形の中で、この上下、左右の伝変を説明しようとしたものである。

 

6. 臨床の実際

    (略)

7.総括

  1. 水毒という概念が意味を持つためには、古典医学に於ける水即ち体液とは何かということを解明する必要がある。そこで、金匱要略の水気に関する湿家の病、痰飲、咳嗽病と臓器の関係、更に水気病脈証第14の心水、汗水、肺水、脾水、腎水と痰飲、咳嗽病第12の、水在心、水在肝、水在肺、水在脾、水柱腎の内容を比較解説し、その方剤を紹介した。
  2. 次に水気篇に於ける寸口、趺陽、関、少陰の脈を紹介したが、それは、脾胃の気の虚衰による軟便と身体の浮腫と、肝血、腎の虚衰による小便不利、月経不通即ち血分の病とをのべている。それは、肝血虚衰を中心とした水気の病証と、脾胃を中心とした水気病との鑑別が大切であるからである。臨床の実際に於いては、血分の病いの水気病であっても、水気病を先きに治療する場合も多く、瘀血があっても、水気病から治療〕まじめねば実効がないからである。
  3. 三焦論についてのべた。五臓六腑の瘀血を論ずる場合には、経脈のみならず、経水を考えねばならないことを強調した。心臓、大血管、微小循環という単純な循環理論ではなくて、体液循環の立場から結合織、組織腔、器管溝という立場から、五臓六脆をはじめ、脳脊髄腔、関節腔、胸腹膜腔など身体全体を考え直す必要があることを強調した。
  4. 私の考えている三焦論の一部を図説してみた。これは小生の創案であるが、不備なところも多く、読者諸賢によって、補正いただくことをお願いする積りである。この図は生理的状態を説明したもので、邪が三焦を経由して、縦方向、横方向に博愛する病態像は面かれていない。
  5. 瘀血と水が関係する臨床の実際を2つの症例で提示した。この中で、足脈の趺陽と少陰脈が瘀血性腹証と関聯深いことを述べた。今日、伝統医学を学習する我々にとって、手脈、足脈、胸腹証の厳しい習練が必要であることを痛感する。

8.結語

嘗って、吉益東洞は、病人の七、八割は水を治することにあると言ったが、我々は、体液の停滞の奥にひそむ瘀血の存在を出来るだけ精確に理解しながら治療医学に役立てることが必要である。
それは、五臓六腋の全疾患という非常に広範囲に亘る領域であり、癌をはじめとする難病の治療にとっても最大のテーマであるからである。

[OGAWA Arata_1992/10/1]

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腹証の問題点

腹証の問題点

小川新

  1. 経時的観察:腹証という空間的な場において経時的観察が欠けているので、実証性の少ない腹証となる。
  2. 虚実:腹証において腹壁の抵抗を腹圧として虚・実・虚実間という虚実論で腹証を弁ずることは、傷寒論金匱要略の古典医学の本流から言えば外れているようだ。腹証の一部分では有用であるのみだ。腹圧を中心として、漫然と虚実を論ずることの弊害は実に大きい。このような曖昧な虚実論が、日本漢方の特徴として外国に伝えられと、白地の布に墨で字を書いたように、それを消し去って寒熱を語っても、少々の努力では消し去らない現状は、最近訪れた上海中医薬大学で確かめたことである。
  3. 胸証:胸証なくしては腹証は完結しない。このことは腹証研究の初めから常に気になっていたことだが、幸い「腹証奇覧」「腹証奇覧翼」には図をもって胸証が記されているので、このことを参考にして研究を進めてきた。結果から言えば、腹証から胸証へ、胸証から腹証へ、胸証と背証、腹証と背・腰・臀証というふうに人体を上下前後から触れるべきである。
  4. 脈証:脈証は、胸腹証と如何なる関連があるかを観察する必要がある。さらに傷寒卒病論集の末尾に近く、「按寸不及尺、握手不及足、人迎・趺陽・三部不参」と言って張仲景は二千年も前から嘆いているのに、中国でも日本でもこのことに無関心であることは何ということであろうか。脈診のみの弁証は不完全であると説いている。そこでは、脈証と胸腹証との相関関係的弁証は不可能になるのです。
  5. 寒熱:近代の腹証論は、『傷寒論』『金匱要略』を中心として発達しながら、虚実論を中心とした腹証論に偏向し、寒熱という基礎理論に基づく腹証の研究が疎かしている。

以上5項目に亘る古典医学、特に日本漢方的腹証の問題点を述べた。

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催瘀血因子

[再掲:過去の論文から抜き書き]

催瘀血因子

小川新

1. 胎毒性瘀血(遺伝性)

胎毒性瘀血と有地滋先生(近畿大学東洋医学研究所教授)の言われるHL-A免疫遺伝因子とは如何なる関係にあるかという疑問が生ずる。目下のところ、私の言う汚血および瘀血の考え方からすれば、この胎毒性瘀血は、HL-Aそのものではなく、HL-A免疫遺伝因子を含めたもっと広い範囲のもので、主として免疫異常を起こしうる血液(汚血)と言った方が良のではないか。この血液の解明は、前瘀血状態ともいうべきもので、予防医学にとって非常に大切な分野になると思う。

2. 感染性瘀血

外からくる諸種の感染性疾患に罹患した場合、炎症の後に、免疫性抗原抗体複合物や組織の繊維化等を残しながら、諸症状がしたときには、これを完全に治癒したように誤認していることが多い。
単純な偏桃腺炎や風邪、インフルエンザを度重ねているうちに、腹証においても、瘀血性抵抗を持つようになるというのである。
かくの如くして、発病した腎炎、ネフローゼ、気管支喘息(感染型)、肝炎、肺結核、多発性関節リウマチ、べ一チェット病、心疾患、高血圧、動脈硬化等諸疾患において、この瘀血を無視しては、治療医学が成り立たないように思う。また、そのような症例を多種にわたり経験している。

3. 治療薬剤性瘀血(副腎皮質ステロイド等)

現代使われている薬物で、副腎皮質ステロイド程副作用の強いものは他に類をみないであろう。その副作用として、満月様顔貌、骨壊死、胃穿孔、内分泌障害、免疫不全等諸種の障害があるが、私が臨床的に確かめた範囲では、これ以外に膀胱部および下腹部に抵抗が増大しており、ステロイドを漸減し、桂枝茯苓丸を投与するにつれて、大多数において、この下腹部抵抗とともに全身の浮腫がとれてくることをみても分かるのである。

何故ステロイドによって、瘀血性抵抗ができるのであろうか。ステロイドの使用初期には、腎機能も非常に活動的に働き、利尿作用も強いのであるが、しばらく連用するにつれて、逆に副腎皮質機能の障害を起こし、利尿作用も衰退して、全身の浮腫を起こすようになり、この水分代謝障害によって引き起こされた細静脈うっ血によって、あらゆる組織の繊維化が促進されるが、全身のうちで最も鬱血を起こしやすい下腹部臓器の静脈性欝滞が促進され、下腹壁に異常抵抗を生ずるのではないかと思われる。
その他、抗生物質、ピリン系解熱剤、精神安定剤、抗癩滴剤等、直接的直接的に肝腎の機能障害を来しうる薬剤は、投与量次第では瘀血障害を起こし得るわけである。

4. 外傷による瘀血

すでに外傷性潜在瘀血障害の種々相というテーマで論文を発表している(「漢方の臨床」18巻4-5号)ので、詳細はその論文を参照いただきたいのであるが、現代外科学においては、皮下、筋膜下、筋肉内、骨折部周辺における局所の出血巣の運命について、長期にわたって観察した研究がないというところに大きな欠陥があるように思われる。
その上、その局所の後遺的病巣が、全身の諸臓器にいかに影響して障害を発生するかについての観察がないわけである。

昨夜、病理学者の杉原芳夫先生は、私のこの論文を読み、私のいう局所の循環障害は、皮下における多発性の細静脈血栓症によるものであろうと指摘されたが、有難い提言であったと感謝している。
た だ私としては、この多発性静脈血栓は、皮下のみならず、軟部組織の一切、骨髄に至るまで発生しているのではないかと思うのである。僅かに骨に損傷があった場合でも、皮膚から骨に至るまでの軟部組織全体に損傷があり、この軟部の傷害を軽視し無視して、徹底的に治療を加えないでいれば、10年-50年という長期問の後に、臓器組織の大きな障害を発生せしめる誘因ないし原因となっていることに、気付かないこと甚だしと言わざるを得ないのである。

先日、心筋梗塞で大動脈一冠動脈バイパスの手術をうけた45歳の男子が来診したが、腰椎をX線撮影してみると、第2、3腰椎に骨折の痕(あと)があり、本人に訊ねたところ、20年前屋根から落ちたことがあったというのである。年来、腰痛を訴えていたとのことであるが、腰部外傷後の多発性静脈血栓が、 心筋梗塞の原因的条件の大きな要因となっているのではないかと思う。ちょうどその頃、彼の手術を担当した主治医に学会で会ったとき、「バイパス手術は成功しているが、冠動脈の他の枝に、梗塞が再び発生しないという保証がないではないか。私はこの辺のところを研究しているのだが」と言って、駆瘀血剤のことを話したのであるが、短時間のために詳しく説明することができなかった。しかし、私の言うことが雲をつかむ事柄のように思えたらしかったが、私達は雲をつかんで雲の話をしているのであろうか。

昭和43年から45年に至る間の5000人の外来患者の中に、外傷性瘀血障害と思われる疾患は、226例(4.5%)にみられたが、受傷後の経過年数は2年以内20例、5年以内28例、10年以内51例、20年以内37例、30年以内36例、30年以上29例、不明29例となっていた。
瘀血の好発部位は、頭部、頸部、背部、腰臀部である。この局所瘀血を発見するには、徹底した問診と初診およびX線撮影が必要となってくる。局所の瘀血障害は、近接臓器への影響ばかりでなく、遠隔部位への障害を経絡的に観察することも必要である。

5. 産褥性瘀血

更年期障害精神的原因によっても、女性は生理不順を起こし、便秘するだけでも下腹部に瘀血を起こしやすい。
『金匱要略』には、婦人産後病脈証として、小柴胡湯、大承気湯、枳実芍薬散、下瘀血湯、竹茹湯、千金三物黄芩湯等の方剤が用意されているが、それぞれの病証に対しての治療が行なわれていない時には、病気は消褪したようにみえても瘀血を残すことが多い。これは、やがて更年期を迎えるにあたり、婦人科的ホルモン機能の自然的減衰が妨げられ、種々の疾患を併発するようになる。いわゆる自律神経失調症という名で呼ばれているものに移行していく。
また私が7、8年前から男性更年期障害と呼んでいるものは、前立腺肥大、前立腺炎等と表現される疾患以外に、下腹膀胱部の腹壁に強い抵抗がみられることが多く、若年者の悪性高血圧症もその中に入れて理解している。このような高血圧症は、心筋梗塞や脳出血を起こしやすく、降圧剤の効きにくいものである。
また、多くの高血圧症を診ているうちに、男性にも女性の更年期に対応する年代を境として下腹部抵抗を持った人が多く、駆瘀血剤を併用しなくては降圧治療が成り立たないことが多いことに気付いたわけである。副腎皮質ホルモンも微妙に減衰していることから、男性更年期障害と呼ぶことにしたのである。

6. 冷房ないし生活環境性瘀血(冷房、無体動による水毒性瘀血)

冷房というのは暑い夏に発汗せしめずに体温を調節しようとするので、返って暑くなる。暑いので更に冷房を求めることになる。かくして、まず足・腰が冷えることにより利尿や排尿障害を起こすことになる。この水滞が、瘀血を誘発することになる。(さらに、運動不足による肥満なども瘀血の要因となる)

7. 外科手術および放射線による瘀血

外科手術によって、剥離のための組織破壊、リンパ腺剥離除去のための血管周囲炎、後出血等のために、局所の循環障害を残す。いかように立派に手術しても、このことは免れ得ないことである。手術直後、できるだけ早い時期から、駆瘀血療法を行なうことは、癌の再発防止のためにも有効である。また近時、悪性腫瘍の治療に用いられる放射線療法を全面的に否定するものではないが、目的とする臓器の周辺も、このために甚だしく障害される場合が多い。時には、脊髄神経麻痺を起こし、癌のためではなくそのために死を早めることも屡々である。これも瘀血障害と呼んで治療の対象としている。

8. 毒物性瘀血(砒素、キノホルム等)

昭和31年頃、森永ミルクに砒素が混入していたために乳児に重大な障害を与えたことは、いまだに記憶に新しいことである。私はかつて砒素中毒の小兒を診たことがあるが、砒素中毒による胃腸障害が消褪したようにみえても、歩行困難を起こした小児を診るに、下腹の臍傍から臍下にかけて漢方でいう瘀血性抵抗が残っており、駆瘀血剤によってほとんど完治せしめたことがある。キノホルムによる脊髄障害もこの方面から研究を進めることにより、治療医学を開発する必要があると思う。このような瘀血に対しては、駆瘀血剤が有効である。それを知らないでは良い治療は成り立たないであろう。

9. 食毒性瘀血(飲食過度、肉偏食)

これは過度に飲食や、魚・肉類の過食によって起こるものである。そのつもりで診察しないと分からないものである。両方の季肋部に“飲食塊”が現われるということを、『腹証奇覧翼』(和久田叔虎)に述べているが、私たちの日常臨床において時に診ることがある。
肉類の過食によるものは、鳩尾より胸骨下部にかけて圧痛があり、心臓も肥大して、所謂原因不明の心不全となっていることが多い。しかしそのような患者の下腹部を診るに、臍傍および臍下部に瘀血性抵抗を持ったものが多い。
ひとつの症例を挙げてみる。35歳の男子で、左腎動脈の狭窄によって高血圧症を起こしている青年を診るに、両鼠径部に圧痛、抵抗があり、本人も自覚している程である。ここ10年間、毎日下痢する程、牛肉を食べたというのである。大学病院で腎動脈狭窄の手術を勧められている。このような下腹部瘀血は、肉食の過剰による腸の炎症と関係があると思うのだが、ここに気付かないでいれば片方の腎動脈を手術しても、反対側の腎動脈も狭窄を起こすことを防ぎきれないのではないかと思う。腹壁をもっと丁寧に観察してほしいものである。

10. 気毒性瘀血(気滞→血滞による腫瘍、癌等)

『素問』にも、「気の著く所、熱す」とあり、乳腺症を乳癌ではないかと心配して来診した婦人の場合、癌ではなくて乳腺症の上の皮膚に熱を持っていることが多 い。外表に見えるものは、この気の動きによって肉体に及ぼす影響がはっきり見えるので分かりやすいが、内部臓器においては、継続的に見ることが不可能に近いので、この気による腫瘍の発生については、実際に見ることは難しい。しかし、胃潰瘍と胃癌の場合、病人の気質をみれば、大体鑑別診断ができることが多いのは、ベテランの臨床家であれば、理解できることである。
肺癌や子宮筋腫、子宮癌の場合にも、その病人独特の気質的傾向があるようだ。この点、心理学の方から、患者自身の無意識に持っている気質的傾向を浮び上がらせる必要があり、それを行なうことによって治療医学も有効なものになると思う。予防医学の面からも大切なことなので、将来この方面からの研究を待ち望む者の一人である。

 

以上催瘀血の因子についていろいろと述べたが、私のいう瘀血には、良性・悪性腫瘍も、両者ともに含んでいる。

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矢数道明先生を偲ぶ

矢数道明先生を偲ぶ(付弔詩)

日本広島 小川新 
平成十四年立冬日靡慝庵にて謹んで誌す

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想い出づる事

 矢数道明先生は昭和の漢方復興の先達のおひとりです。
 復興、その有り様を眼にされながら、且つは喜び、且つは心を砕きつづけられた中軸の大御所を失ったことは、何としても悲しいことであります。
 バブル経済とともに泡沫肥大化した日本東洋医学会は大きな指導者を失い、迷路から抜け出す道が見えなくなりました。この行く末どうなるのでしょうか。

 先生は永年に亘り同志とともに、先の大戦中から日本、中国、韓国を含めた東アジア地域の漢方復興運動の協会、東亜医学協会を中心として国内外の漢方復興に尽力されてきました。
 西医一辺倒の政治的環境にあって、日本の代表者のひとりとして対外活動のみならず、国内の漢方医術医学の向上と発展に力を尽くされ、また金銭的な犠牲を負いながらも忍耐強く『東亜医学』にはじまり『漢方の臨床』誌を発刊せられ、また戦後には同士とともに日本東洋医学会を創立されました。

 娑婆の世界で、黙して我が身をかえりみず人を支える人間は少ないものです。人の為した功労の上に財、力、名を得る人が多いこの世で、先生はいつも目立たぬ所で隠れた徳を積む明治生まれの国士でありました。

 小生が四十年前、先生とお会いした時からこのように感じましたが、それ以来何時お会いしても、常に謙虚で誠実な御姿でありました。
 私のような漢方の後進からすると、傷寒・金匱を中心とする純粋古方派の一部に見られるような頑固さもなく、傷寒論の背景にある中国古典を大切にした後世派をも含めた柔軟で大なるものがあったように感じられ、私のように特定の師弟関係がなくとも受け入れる懐の広い先生でした。             
 自学自習し、古典を通して検証し、自らに問いかけながら温古創新をよしとする小生のごときは、この袂の深さが却って自由な雰囲気があり、(先生はどう思っていられたか分かりませんが)三蔵法師の手のひらので飛び跳ねる孫悟空のようなものでした。小生はいつもは東京にいないので、お叱りを受けるようなことは一切耳には入りませんでした。
 ある時、細野先生の御弟子で、広島在住の医師が先生の診療所を見学した時、訪れてみれば純粋な古方の処方が多いのに驚いたということです。世間では古方派に比較して、後世派一貫堂医学の粋の中で先生の古典医学を解釈していたようですが、それは大きな認識不足だと言っていました。それを聞いて小生は、道明先生ならば然もあらんと納得したものです。

 今は亡き先生と語ることはできませんので、小生の勝手な思い出を語ることになりますが、先生しばらく御許し下さい。

 先生に最初にお会いしたのは、約四十年前の日本東洋医学会が京都で行われた時でした。小生は頭痛症について、頚椎の骨変形の研究を含めた頭痛症150例の発表をしました。私としてはそれがこの学会の初舞台でした。壇上からさっさと降りて走るように会場を出ようとしたとき、後方から「君、君!」という声があるので驚いて振り向いてみれば、それが矢数先生でした。その研究を「漢方の臨床」誌に投稿してはどうかとお話になりました。「はい、ありがとうございます。書かせていただきます」と返事しました。この大先生に私の発表をお認め頂いたことを嬉しく感じ、早速やりかけの頭痛の症例150例の椎骨の変形と頭痛との関係の整理に入りましが、一週間ほどして過労により風邪がこじらせ自分の頭痛の為に論文の整理ができなくなりました。その中の興味ある症例として五苓散だけを取り上げて、やっと「漢方の臨床」誌に投稿したことを今だに憶えています。そして、掲載号をみると、当時の理事長相見三郎先生と私が同じ五苓散と頭痛というテーマになっていました。当時の編集者の気賀林一氏は、その編集後記の中に私の人間像をこのように書いておられました。“東洋医学界にニューフェースあらわる、ターザンに似た男”と。この表現には小生も思い当たることがあり、要するにとにかく素朴、粗野ということでしょうが、本来私は、世渡りの上手な外を飾った紳士風の都会人にはなるまいと青年時代から覚悟していましたので、この表現には満足した次第です。しかしこの中で、証の表現法についてかなり厳しい批評を述べておられました。

 約三十年前から日本の東洋医学界は、製薬会社としては当然の利益追求型経営戦略=簡便に薬を処方する術をマニュアル化し、一方でそこそこの権威者をつくり彼らを利用し販路を拡大=に多くの医師を巻き込みあるいは自ら巻き込まれ、烏合の衆の泡沫漢方の道を辿り『証』(仕様)のない漢方を助長するに至った。しかしこれは治療者たる医師らに専ら責任があるのです。このような状況のもと日本東洋医学会は肥大化していくが、学術内容は次第に低下し、心ある漢方家の憂慮する時代に突入し、本日のごとき凋落の歌が聞こえるようになってきました。憂国の士道明先生は先に憂い、そのことを予期しておられたのではないかと思われるのです。

 さて、四十年ほど前、大阪、神戸、広島、福岡などの薬系漢方家が中心となり合同勉強会をやろうということで「日本漢方交流会」がつくられ、その発会が広島で行われました。 日本東洋医学会の発足以来、医師の会員と共に、古典学術の方面において“地の塩”のごとく支えていた薬系漢方家が、何ら日本東洋医学会に造反することなく、薬系漢方家の立場を理解したもの同士が互いに切磋琢磨することを旨とするこの会に、矢数先生は深い理解を示され、発会を祝され先生お言葉の入った録音テープを気賀林一編集長にたくされ、広島大学の会場に送ってこられたのでした。
 また矢数先生には、この交流会発足後の運営についてまた特に法人化の事などでもご理解と関心を示していただいたことにみな勇気づけられ感謝しています。
 また後年、日本東洋医学会は日本医学会加入が承認されて以来、医師中心の学会の様相を呈し、さらに漢方薬の保険薬収載のこともあり、ますます医師中心の学会となり、薬系漢方家の存在は経済的にもまことに難渋せざるを得なくなってきていますが、この「日本漢方交流会」はこの様な時勢でこそ一層重要だと思っております。そしてまた、先生の一貫堂グループでは古典の証を大切にする勉強会が活発に継続されています。

 二十三年前に広島で発足した日本瘀血学会については、私のこの会発足の趣旨を非常に喜んでいただき、「瘀血研究」の第一巻号に載せられているように、貴重な祝辞をお寄せ下さいました。
 この日本瘀血学会の発足当初には、上京した機会には、よくこの会の存在の意味するところの重大さに気付いて一緒にやりましょう、手伝ってください、と学会幹部に頼んだものですが、、、。
 しかし曲がりなりにも古典的証を中心として、新しい科学を枠にとらわれず導入し、次第に発展してきました。

 歴史が示すように、中央政権に近いところで運営すればその時代は盛大になるでしょうが、とかく地方の情報は軽視あるいは無視され、また鋭い洞察、高い見識は失われていくものです。  
 例えば唐初時代、孫思邈によって編集された千金方には傷寒論が抜けていますが北宋の林億によって編集された千金要方においては傷寒論の処方を大幅に取り入れており、唐初には何故見逃されたかについて、「南方の諸師、秘して伝えず」といった意釈が付いているのです。それは、長安を中心に生きておれば南方諸氏の傷寒論医学の素晴らしさが伝わってこなかったからだと言っているのです。
 しかし古典医学を学習し臨床する者にとっては、都会田舎とか、百年二百年といった差異など問題にはならない。
 また、その時代の名声を求めて派閥を作るなどよくあることです。
 このような学会(瘀血学会)は世界で唯の一つであろうと自負し、小なりといえどもその存在意義を肝に据え、時の流れの中に来る時代を見据え、国際的視野に立って運営してまいりました。

 先生は人の世話はなさいますが、決して自らを表に出さない人格でありました。

 約十数年前のことでした。埼玉医大の宮川マリ女史が生きて活躍しておられる頃のことです。マリさんの師匠であり、また中医学のリーダーであった陳可翼先生(現政治協商会議委員)を紹介してもらい、翁維良(西安門医院副院長)と北京で会合し、国際瘀血学会の発足を相談し、第一回目を上海中医薬大学で開催することにしていましたが、その開催に際し、北京の命令的運営に対し、上海がその開催を断ってきたことがありました。その節、中国の国内事情が分からないので、矢数先生にその間の事情を報告し、電話で相談したところ、「それは北と南と言っても外国のようなものだよ」と言われたのには驚きました。「衛生部と大学との関係も外国みたいなものだよ」と言って教えていただきました。私はなるほど中国は医療界といえども党派閥・官僚閥・地域閥などの抗争の場であるのかと理解した次第です。北京、上海、成都、広州という四大中医薬大学間においては、ほとんど人事交流がないことをみてもお分かりいただけると思います。先生の貴重なアドバイスにより、無事国際瘀血学会を2回行うことができました。ある事情により中断いたしておりますが、いつでも再開する予定です。

 さて、上海で開催した国際伝統医学技術交流会議のことです。今回まで二回、上海中医薬大学で開催しましたが、それは四日間にわたり、中国の教授達が治療中の患者四人に会場に来てもらい、担当の教授により病歴、治療経過の説明をを行った後、この治療学に対し日中双方から感想意見を出し合い、最後に日本側から腹証をも行ない、その患者の治療をどのように行ったらよいかを意見具申するものですが、上海の大学学生や十数人近くの教授が集まって討論し合うものですが、これの開催についても、矢数先生や藤平先生にご相談しご意見を聞いたうえで開催したものです。

 次に、東亜医学協会主催の、生薬を用いた漢方医学会のことです。志しある人がこの学会に協賛し、次第に盛んになってまいりましたので、先生も喜んでおられたようですが、この会の開催については、これが始まる十年くらい前から寺師睦宗君といつも話し合っていたのです。伊藤清夫先生が、本気になって矢数道明先生の意図を具体化されたように推察しておりました。

 秦につづく漢からヤマトに伝わった医術「漢の方」は“腹をうかがう”ことで独自の発展をしてきました。

 先生の生前に成し得なかったことですが、いつか実現したいものと思っていることがあります。
 それは、腹証、胸腹証と人迎脈、少陰脈、寸関尺の手脈の関連性と弁証を、腹証に特に研鑽してこられた先生数人と公開講座あるいは討論を開催することです。その際、同一の患者を診察し、その弁証を互いに発表し合い、いかに治療医学に結びつけるかの方証相対の実際を、一切の既往歴、病歴、治療経過を術者には知らせないで、いわゆる不問診で行ってみたらよいのではないかと思っています。勿論、個人の互いの研鑽のためでもありまし、世のため人のために少々の時間己の立場を忘れる事も肝要かと思いますが。
 そして、その記録の一切は映像や文字として残し、これに対する意見をも加えて公表すれば、日本漢方の特徴もよく分かり、日本で中医学を学ぶ人、中国で中医学を学ぶ中医師達、教える教授達、日本で日本漢方を学ぶ先生方にとっても貴重なアドバイスとなるに違いないと考えています。

 現下の日本の腹証による弁証論治の程度では、いくら「腹証が日本漢方の特徴であります」と強弁したところで、西洋医学からも中国や欧米からも学ぶものはないと言われて、近未来では日本のみならず、世界からも日本独自の医方は顧みられられなくなる時が来ると予想されるのです。
 これでは近世の日本の腹証の先駆者、僧夢分、吉益東洞、「腹証奇覧」および「奇覧翼」の著者稲葉文礼、和久田叔虎、そして現代その腹証を継承し発展させた矢数先生、大塚先生、細野先生などの御恩に報いるどころか、むしろ御心配をかけ落胆させるようなこととなってはいないか。そのことに気付き、おわび申し上げなければならない状況になっているのではあるまいか。

 今や日本の国は、政治経済的には非常に透明性を持った時代となり、過去の虚飾の世界が次々と壊れ行き、新しいものが始まらなければ日本国はどうなるのかという危機感が日増しに強くなっております。将に日本漢方界は、最大の中心的長老を失い、俗悪贋方(漢方)が日本国に横溢し、五里霧中となるのではと憂慮いています。平成の『医界の鉄椎』をお書きになる憂国の士の出現を望むものです。

 矢数道明先生、長い間お世話様になりました。医の歴史、漢方医史を通じても、先生の功績は偉大であります。私は能なし日本国民の一人ではありますが、安楽浄土の先生が、少しでもお喜びになるような日本漢方界を新しく作って参りたいと思います。

 祇園精舎の鐘を聞きながら安らかにお休みください、そして時に応じては我々をご指導し、お守り下さい。

 世に有り難きは、その行でありその徳であります。

弔詩

 矢数道明先生の行を讚え徳を偲びつつ、、、

人の世を 救わんものと もろひとの
叡智の粋を 伝ふべく
身心(みこころ)捧げし その生命
道明らかにせん 永久(とわ)に輝き

   小川新
   平成十四年十一月立冬日 靡慝庵にて謹んで誌す (2002年11月)

■矢数道明先生のことをもっと知りたい・外部リンク《 「略伝矢数道明老師」述・真柳誠氏

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