カテゴリー「小川古医書館」の記事

西流・阿蘭陀外科免許状(天和二年1682年)

西流・阿蘭陀外科免許状 (小川古医書館蔵)

■西吉兵衛が西道庵に与えた免許状を西道伴に授けた外科免許状(天和二年[1682年])

Nisiryunanbanmenkyo1

 醫有内外兩科。猶、車有兩輪。若、夫癈其一、則、豈保其生命乎。歴代明醫、所編集外科書流傳至于今者、不為不多矣。尤(もっとも)、雖(いえども)盡服薬之微、未盡敷薬之妙。故患瘡瘍者、咸怠于敷貼之藥徃徃夭死者不寡也。嗚呼、可嘆哉。間、南蛮阿蘭陀兩科盛行于世。誠國家保民命之一助也。抑、兩國爲人物天質巧伎術、自然精、鍜錬尤於外科道、深、研工力厚罄心志、是以芳誉妙手亦冠于世、其學之者無未得外治之妙也。然而世醫或有通其理者未知其事、或有知其事者未通其理、或贖求書于市自称外科者多矣。如此者、專切破突押之術、未知寒熱補瀉之理、譬、盲人、騎瞎馬、闇夜如臨深淵殆哉。
 予自弱冠師事于沢野忠菴學言語且外科向于立歳奉 公命勤象胥之役。故又學外科某切琢年久一且豁然初貫通其理。蓋今、學之者容易欲得之、非啻(ただ)無益治療、復戕賊人而已(のみ)。實豈不幾。以刃殺人。不可不謹。 于兹西道菴、深有外科志、托予學既有年、故口傳心術授之無所遺漏。後人、有欲學之者、斟酌其志意、推明其生質、以可有傳授之也。敢、以其近不可忽之。  
        西吉兵衛尉
   天和二年仲秋上旬
        西氏道菴 花押 印
     西道伴雅丈

________________________________________________________________

 医に内外両科有り。猶ほ車に両輪有るがごとし。若し夫れ其の一を廃すれば、則ち豈に其の生命を保たん乎。歴代の明医、編集する所の外科書流伝今に至る者、多からず為さず矣。尤(モットモ)、服薬の微を尽すと雖(イエドモ)、未だ敷薬の妙を尽さず。故に瘡瘍を患らう者、咸、敷貼の薬を怠り、徃徃夭死の者寡からざる也。嗚呼嘆く可き哉。間、南蛮阿蘭陀両科盛に世に行る。誠に国家民命を保つの一助也。抑も両国人物天質伎術に巧、自然に精しく、尤外科道に鍜錬し深く、工力厚罄心志を研き、是を以て妙手を芳誉すること亦世に冠たり、其の学ぶ者未だ外治の妙を得ざる無し也。然れども、世の医、或は其の理に通ずる者有、未だ其の事を知らず、或は其の事を知る者有、未だ其の理に通ぜず。或は書を市に買求めて外科を自称する者多し矣。此の如き者、切破突押之術を専らにし、未だ寒熱補瀉之理を知らず、譬えば盲人瞎馬に騎り、闇夜に深淵を臨むが如し、殆(アヤウキ)哉。
 予弱冠より沢野忠庵に師事し言語且外科向を学び、歳立ちてより公命象胥(通弁のこと)の役を勤め奉る。故にまた外科某を学び、切琢すること年久しく一且豁然として初めて其の理を貫通す。蓋今、之を学ぶ者容易に之を得んと欲するは、啻(タダ)治療に益無きのみならず、復人を戕賊するのみ。実に豈にすくなからずや。
 刃を以て人を殺すは謹まざる可からず。兹において西道庵、深く外科の志有り、予に托して学ぶこと既に年有り、故口伝心術之を授くるに遺漏する所なし。後人、之を学ばんと欲する者有る、其の志意を斟酌し、其の生質を推明し、之を伝授することある可き也。敢て其の近きを以て之を忽ちにす可からず。  
      
       西吉兵衛尉

  天和二年仲秋上旬(1682年)
 
       西氏道庵 花押 印

    西道伴雅丈

________________________________________________________________

続きを読む "西流・阿蘭陀外科免許状(天和二年1682年)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

阿蘭陀外科楢林一流家伝書(3)

阿蘭陀外科楢林一流家伝書(三)

阿蘭陀薬油之集解
(小川古医書館所蔵)

Orandageka_narabayasi_3_2

記載されている薬油など(記載順)
1.ヲヽリヨロウサアロン
2.ヲヽリヨカモメリ
3.ヲヽリヨレリヨウロン
4.ヲヽリヨイヘリコン
5.ヲヽリヨロンフリコウリヨン
6.ヲヽリヨラウリイネ
7.ヲヽリヨアマンドロ
8.ヲヽリヨベツトロアマントロ
9.ヲヽリヨベツテハンデハルセキ
10.ヲヽリヨハツハアブラス
11.スビリサアリス
12.スヒリトサアリスアルモニヤアシ
13.スヒリトスコルニサルウヱ
14.スヒリイトスヒツテリヨウロム
15.ヲヽリヨソリスネ
16.ヲヽリヨナアガラ
17.ヲヽリヨシナモウモ
18.ヲヽリヨアネイシ
19.ヲヽリヨヘニコル
20.ヲヽリヨカルヱ
21.ヲヽリヨケンブル
22.ヲヽリヨランアツフル
23.ヲヽリヨセネーブル
24.ヲヽリヨテレメンテイナ
25.ヲヽリヨロウズマレイナ
26.ヲヽリヨフロンヘイ
27.ヲヽリヨラハアロム
28.ヲヽリヨセロソヘール
29.ヲヽリヨマステキス
30.バルサムソルフルアネザアト
31.ハルサムソルフルス
32.金銀花之露
33.児手柏葉之露
34.松葉之露
35.車前水
36.茨丿花丿露
37.駒引草花丿蜜漬製法
38.茨丿花丿蜜漬
39.製法桑椹
40.サルホラアテヲリヨウスム

| | コメント (0) | トラックバック (0)

小川清介のこと-「老いのくりごと」より “幕末より明治期にかけた変動期に於ける一医師の記録”

(掲載)「広島医学」Vol.32 No.4 、1979年4月

記・小川新

小川清介のこと
清介「老いのくりごと」より
“幕末より明治期にかけた変動期に於ける一医師の記録”

Ogawa_seisuke2

略伝

天保9年(1838年)4月8日、佐伯郡草津村(現在広島市草津)に出生。明治37年(1904年)8月4日、同所で卒。67歳。

生立

後に紹介する小川清介の「老いのくり言」によれば「予カ兄弟、長兄俊太郎早世。次ハ女子阿貞、官医小川元調、老後松雲ニ嫁シ玉ヒ、次ハ男子幼名慶次郎、後有慶又有圭又朴二(または敬次:筆者注)、俳号風也、西家ヲ相続シ玉ヒ、次モ男子達三郎、出テ儒ヲ取テ備前藩ニ仕ヘ、目下西毅一其相続者ナリ。次モ男子勝四郎早世。次ハ女子阿節早世。次ハ男子幼名謙吾、即チ予ナリ、出テ分家ノ小川道仙翁ノ嗣トナル」ということであるから、西甫安(八世道朴)の五男である。 (西達三郎は後に後村と称す)

24歳の時、望まれて広島藩医官小川道仙の後嗣となり、名を小川道甫と改め幕末の変動期に上野、会津、奥州等に従軍したが、廃藩置県後、小川姓のまま草津西家に帰り、次兄西有圭の没(明治12年1月10日)後も草津、高須、古田、庚午、井口、阿瀬波等、広範囲の診療にあたる。

和漢の書を広く渉猟して博学多才、和歌俳句を善くし、また医療に精わしければ大いに世に用いられる。その人となり仁慈剛直、人を医するにあたって薬価を徴することなく、貧者には米麦故衣を与え、或いは金銭をひそかに恵むなど、ひたすら累世の行為にならう。

その陰徳は世の尊敬を受け、明治27年3月9日、銀婚式の佳辰を記念して、村内の有志によって、西氏功徳碑が建設せられ、鷺森杜の境内にて挙式せられたという。(下の写真:浅野長勲侯題辞/現在広島市西区草津本町/撮影2004年)

Koutokuhi_2

清介翁の筆になるものは、当時の診療録及び若き時代から没年まで、折にふれて詠み残した歌集「桃乃屋集」、更に明治維新からすでに三十数年の歳月を経て、ようやく人の記憶から往時の出来事が薄れつつあった明治33年春、この老医師が幕末明治期の激動にゆらぐ日本の中で、自ら体験してきた半世紀を振り返って、その思い出を記録した「老いのくり言」5巻がある。その一部、第1巻と第3巻は、1976年1月、学習研究社「日本都市生活史料集成四、城下町篇二」に収録されている。この「老いのくり言」のうち、医家小川清介としての身近なものみを抜粋して紹介し、後世医学史の資料としたい。

注)西毅一(にし きいち)=天保14年生。岡山藩家老池田隼人の家臣霜山徳右衛門 の長男。字は 伯毅、幼名久之助、号薇山。父に従い大坂に出、篠崎訥堂・後藤松陰に学ぶ。帰郷して森田節斎 の門人西後村の学僕となる。後村の養嗣子となり西姓を称した。歿後は森田節斎の学僕となる。  明治3年上海に渡り英語を習得して帰朝。岡山県惨事・東京上等裁判所判事などを歴任。 明治12年再び清国に渡り文学研究に励んだが、まもなく病気にかかり帰国。閑谷学校 (しずたにがっこう)の校長や、同校の育英に尽力。士族授産のため「微力社」を設立経営するなどもした。明治37年歿。 (平成6年山陽新聞社刊「岡山県歴史人物事典」より)

(筆者注:西後村=西達三郎。出て備前藩池田隼人氏に仕え、閑谷学校にも関係し、岡山藩周旋方として関西方面で活動中に病して皈郷のちに広島草津の生家西家にて卒、1863年文久3年6月13日34歳、無子。養子西毅一)

小川清介「老いのくりごと」より

 

Oinokurigito151_2

1. 勉学のこと

○予カ幼少ヨリノ師ハ、寺小屋ハ大野屋十三郎(西楽寺ノ前)、西楽寺ノ隠居(上町)ハ読書ノ師ナリ、*広島ニテハ山口大助(堺町古義流)、堀小一郎(猿楽寺朱子流)、備前金川ノ難波立愿、大阪ノ緒方洪庵、伊予ノ大洲ノ鎌田玄台、江戸戸塚西甫、長州萩ノ青木周弼、大阪小野元民、備前岡山ノ長瀬元蔵(時衛)等ノ諸先生及ヒ大阪病院ノ入学等ナリ、其ノ間ニ廿四歳ノ四月、小川氏ヲ相続ス。(頭注*広島の儒家ヘ通学セシハ十六歳ノ頃ヨリ十八ノ頃迄、高橋文良翁ノ方ニ居リシ間ノコトナリ)
【 筆者注:長瀬元蔵(元藏)は緒方洪庵の門人なり。高橋文良翁は清介の大叔父】

○安政二年、長州萩ノ青木周弼翁ノ塾ニ在学中、其ノ冬宮市ノ価人贋金ノ罪ニテ萩ノ刑場ニテ磔ニ処ラレタリ。此者ハ如何ナル故ニヤ臍帯ノ瘢痕ヲ認メヌ、予ハ 因ヨリ一般ノ人モ不審シアヒヌ。

○予カ緒方洪庵先生ノ塾ニ入シ頃、塾頭ハ松下元芳トテ久留米ノ人ナリシカ、此人去テ福澤諭吉之ニ交リヌ。塾中三区ニ分レテ、大部屋トテ四十畳、又自然窟トテ十畳敷、之ハ四級以下八級迄ノ生徒ノ居所。別ニ清所ト言テ三級以上ノ人ノ居所ニテ十畳余アり。一人ニ一畳ノ当ニ居所ヲ設ヶ居シカトモ、清所ノミハ人員少クシテ畳数多ク、払除モ行届キナ随テ清潔ノ方ナリキ。 余ノ二区ハ月ノ朔日ニ一度払除スルノミナリシカハ随テ穢汚ナリキ。加之其払除セシ塵壊ヲハ行灯及ヒ両掛等ノ荷物ヲ積置押込様ノ所へ払込置シ事ナレハ、夏日ハ蟲類モ発生セリ。今日ノ生徒ノ身ノ上ニ比較セハ霄壌ノ違ヒアリ。月俸ハ其頃ノ弐朱余リニテ事タリヌ。【筆者注:小川清介は兄西敬次(有圭)のあと8年後適々塾に入門している】

○文久三年、予浪花ニ遊学、其三月父君新宅叔父君達吉野ノ花ヲ看テ夫ヨリ京都ニ上リテ将軍家ノ御上洛ヲ拝マントノ御心ニテ打連テ上リ来マセリ、能折ナリ迚モ御供シテ出立ヌ、其頃桜ノ宮ノ花ハ既ニ散タレハ彼地モ如何アラントアヤブミナガラ行々テ河内国早振ノ里ニ宿リシニ此地ハ尚寒気強クシテ梅花夕ニ開キ得ヌナレハ、吉野ハ未タ早カルベシ抔里人ハ語レリ、扨テ楠家ノ城趾及ヒ墳墓等尋ネ巡リテ何々越(坂名ヲ忘ル)ヲシテ吉野ニ到リシニ好天気ノ満開ニテ雪トモ月トモ譬へ難キ気色ナリキ、次ハ長谷奈良アタリハ花僅ニ残リ、京都ニテハ亦散花ノ後ナリケリ。

○維新前将軍始メテ御上洛ノ春、予テ予ハ大阪ニ在学中ナリシ所、家君及ヒ新宅ノ叔父、松屋ノ伯父等御上阪アリ。其ノ御供シテ河内ノ金剛山ノ中腹楠氏ノ古城趾、夫ヨリ峠ヲ越テ大和国ニ入吉野山ノ花ヲ一覧シテ京師ニ入シコトアリキ。其ノ途中紀州藩ノ人ノ由ニテ下婢様ノ者小児ヲ背負、或ハ抱キナ通行セシヲ見シニ、其下婢執レモ一口ノ短刀ヲ帯ノ間ニ挿居レリ。広島ニテハ右ノ如キ風俗ハナカリシコト覚ユ。

○予少年時ヨリ其ノ頃相応ノ解剖 生理 薬性 治療等ノ諸書ヲ読テ、如斯病症ニハ如新斯剤ヲ用テ、治療スヘキ者ナリトハ凡ソハ意得居タリシモ、扨、実地患者ヲ診スルニ当リテハ、其何病ナリヤヲ判決スルコト難ク、随テ之ヲ療スル法方モ之ヲ案出スルコト能サリシカ、何歳ノ頃ナリシカ一朝豁然トシテ悟ル所アル者ノ如ク、従前ノ迷雲晴渡リテ諸病ノ診断ニ当リテ是ハ何病ナリ、是ハ病名ヲ下シ難キ者ナリ抔などト判然ト心中ニ判決ヲ下ス事ヲ得シ様ニ成シハ、我ナカラ不思議ノ事ニテ斯様ナル辺カ悟リラ開キシト言物ノ如キカト、其愉快ナル事ハ今ニ忘却セス。

○明治七年三月ニ大阪府ノ病院ニ入学シテ其十一月ニ帰宅ス。 (大阪府ノ病院=明治6年開設大阪府病院)

2. 相続のこと

○文久元年、予カ小川家ノ相続者トナリシハ二十四歳ノ四月ニテ、前年ノ冬萩ノ青木周弼先生ノ許ヨリ皈リテ居リシ頃ノコトナリ。【文久元年1861年】
四月二十五日ハ兄公ノ命ニテ予テ頼ミ置シ薬籠ヲ視来ルヘシトノコトニテ、夕飯ノ後出広シ其序ニ本家小川ヘ立寄シニ(主人元調翁ハ江戸在勤ナリ)姉君ノ仰ラレケルハ、何ソ異リシコトハナカリシヤ、否何モ承リ不申、八田新七ハ行タリヤ、弟カ家ヲ出ル前ヨリ来リテ家君ノ所ニテ何カ噺シ居マシタ、其事ナリ実ハ新宅ノ道仙サン昨夜急病ニテ死亡セラレシニ付、親類知己ノ人打寄テ相続人ノ相談アリシニ、承知ノ如ク内ニハ男子ナケレハ他家ヨリ貰ヒ受ヘキ筈ナレトモ、長キ短カシニテ一定セス。其時八田新七(道仙翁ノ兄弟ノ子ナリ)是ヨリ草津へ行テ西ノ弟ヲ貰ヒ来ルヘシ如何アラント言シニ、誰モ別ニ異議申立ル人モナク決セシカハ総テノコトヲ同人ニ委任シテ開散セリ。然レハ家君ヨリイカ様ノ御返答アリシカ心許ナク早ク皈ヘシト仰セラレシ故直ニ皈宅セリ(素ヨリ夜中ナリ)。【筆者注:清介の姉貞は小川元調の後妻/八田新七:もと小田新七は明治になり八田と姓を改める】
 家君御前ニ召レテ仰セラレケルハ今日八田新七来リ、新宅小川の相続者ニソナタヲ貰ヒ受タキ所望ナリ。猶種々噺ノ末何分本人不在ナレハ御速答成カタシト申シシニ、貴老ノ御心中ハ如何ニト問シ故、愚老カ身ニハ兄ノ子モ有之コト故、達テ否ミ申程ノコトモコレナシト答ヘシニ、左様ナラハ事動カス可モアス本人不在タリトモ親ノ命ニ背ク子ハ有ヘクモアラス、是ヨリ引返シ親類中へ披露シテ安堵セシムヘク何事モ明夜運ヒ申ヘクトテ、一言半句ヲモ言シメス自身大呑込ニテ皈リ去リヌ。今更否マン様ハナケレトソナタノ意向イカニヤト仰セラレケリ。
 如斯相成候上ハ身ニ於テ申上ン条件モ之ナク、家君ノ思召ニ随ヒ申上ヘシト御答申上是ニテ事一決シテ寝ニ就ヌ。二十六日ノ午後出広、本家へ行テ入家ノ準備ヲナシ、姉君ノ御心添ヲモ承リ、夜ニ入テ近藤為之助ニ誘ハレテ入家皆々ニ挨拶モシ、棺ニ向ヒテ拝ヲナシ猶一碗ノ茶漬ヲ喫シ、是ヨリ五十日間ノ喪ニ居レリ。
 此日ノ朝、病気大切ニ付養子願等ノコトニ就、見分トシテ御目附其他ノ御役人出張アリシトキ、門生斉藤宏達(山県郡ノ人此時ノ取計ヒ事ハ総テ以前ニ取繕ヒ置シコトナリト言)深ク蓐中ニ潜ミ、病者ニ扮シテ其場ニテ何カ少シク書シタリ。是ニテ表面ハ事故ナク相済ミ、此日ノ内ニ養子願ヲモ出シ、死去発表ノ知セヲモ出シクリトノコト。二十七日禅昌寺へ葬ル。【筆者注:この相続法は非常手段であり「末期養子」という】
 此死亡ノ原因トス可ハ温徳公(御三ノ丸御住居)御隠居後モ御子彼是オハシマシシカトモ、孰レモ御成長ナシ、此度ハ小児科ナラネトモ道仙へ申付ヘシトノ御事ニテ、御妊娠中彼是ト注意ヲ申上御出生後モ御申分ナク御肥立遊サレ御嬉ヒ一方ナラス。次ノ年御初幟ト申コトニテ四月二十四日召出サレ、此度ノ若殿ノ御健康ニ御成長遊サルルハ道仙カ尽力ニ依所ナレハ、今日ハ充分ニ御酒頂戴スヘシト勧メニ勧メラレテ夜ニ入テ皈宅シ、間モナク脳出血ニテ其儘醒覚セサリシナリ。此若殿ヲハ鍋槌殿ト申奉リシナリ。【筆者注:温徳公=広島藩九代藩主浅野斉粛。斉粛の子十代藩主浅野慶熾は1858年没】

○予カ家督相続ハ六月(今ノ七月)ノ廿日頃ナリシ、五十日ノ忌中ヲ畢テ忌明ノ廻礼終リシ頃、御用人連名(養父ノ支配頭ナリ)ニテ御用之儀候条、明後日四ツ時登城可有之候トノ御用状ニ接シ、初メテノ登城万事不知案内ニテ、同道ノ案内ヲハ山中仙庵(東白島在)ニ依頼シテ、明朝両人登城シテ申渡シノ間ノ工合、其時ノ作法等仙庵ヨリ伝習セラレテ待居シ程ニ、四ツ半時(今ノ十一時)立花ノ間ニテ御用人ヨリ家業勤務下賜ノ家禄等ノ奉書ヲ渡サレテ拝受シ、下城カケ御家老・御中老・御年寄・御用人ノ宅へ御受ケ御礼ノ廻勤ヲ畢テ帰宅シテ見レハ、近親懇意者等打集テ予カ帰宅ヲ相待居、一同嬉ヒヲ述祝盃ヲ傾ケヌ。無程大御小姓頭ヨリ御自分儀、自今拙者御支配ニ候条可被得其意候。已上トノ書状到来、是ヨリ大御小姓頭ノ支配ニテ儒医組、即チ外様ト成シナリ。御家老ノ小人夜中使スル時ハ丈ケ弐尺計ニシテ其ノ家ノ印ヲ附シ大釣灯ヲ提グ、是ニテ御家老ノ人タルヲ認ルニ足レリ。

3. 医制のこと

○支配頭ハ御近習向テ勤ル医師ハ御用人ナリ(御側医師及ヒ御側医師並ハ御近習向ナリ。此内ヨリ方々様ノ御執匕、又方々様ノ御付ヲ命セラレテ毎朝交番ニテ拝診ニ出ルナリ)。外様医師ノ時ハ大御小姓頭ヲ支配頭トス(此輩ハ毎日ノ勤務ナシ)。啻石州大森出張ヲ年番ニテ命セラレテ其用意ヲナシ居ル位(是ハ異国船防禦ノ手筈御引請ナレハナリ)、其他ハ御野合ノ御供位ノ事ナリ(御鷹狩・御山狩等ヲ言)。然ルニ元治・慶応間ハ時勢ノ変遷、運政御編正ニ従ヒ、講武所へ日々交番ニテ出張シ、或ハ山野調練ノ時交番ニテ随行スル等ノコト始リヌ。

○往昔ノ医師ハ主人持ト成コトヲ嫌ヒシ者多カリシカハ、上ニ此者ヲ召抱ヘラレタシト思召シテモ、若拒絶セラレテハトノ注意ヨリ、其思召アルトキハ先ツ内々ニテ其者ニ其意ヲ通スレバ、其者モ熟考ノ上以前ノ社中へ、此度斯々ノ次等ニ付御辞退申上難キ間奉公人トナル間、其旨御知被下タシトノ趣旨ヲ述テ一応内々ニテ奉答申上シ者ノ由、然ラサレハ社中ヨリ拒絶セラルルノ不面目ヲ被ルコトアレハナリ。
 然ル後表面被召出シ者ニテ、此方ヨリ手ヲ廻シテ被抱シコトハナシ。故に大島順庵ト言シ人ハ千石ニアラサレハ抱ヘラレシト申シシニ、医師ニハ千石ノ先例ナケレハ禄ハ三百ト定メ、其他ノ諸物成ニテ一ケ年千石ノ取分ニ致スヘシトノコトニ決シテ抱ヘラレントナリ。後世ハ然ラス、此方ヨリ種々ト手ヲ廻シテ抱ラレシ故追々禄高モ減シ、猶下リテハ御医師格ト言テ七人扶持・五人扶持迄ニテモ抱ヘラレシ人モ出来ニケリ。

○御側医師ヲ長年勤続スルトキハ其格ヲ進メラレテ御歩行頭等ノ役格ニ被成、且相等ノ役料ヲ下サレシ者ナリ。

○藩政ノ頃ハ医師ヨリ死亡届ト言コトハ無リシ故、仮令近辺ノ病人ニテモ、何病ニテ死亡シタリシカ知ラサルコトアリ、サレハ其死亡ニ於テ一切関係ハ無リシナリ。併シ変死ハ検視ヲ受ル例アレハ一様ニハアラスト知ヘシ。

○広島藩ノ御領ハ一般ニ堕胎ハ厳禁ナリシ故、随テ人口著シク夥多ナリシ理ナリ。故ニ今日ニモ安芸国ハ八十余万ノ人口ヲ有シテ他ノ大国ヲモ凌駕セリ。他国ニ在テハ今日ノ事情ハ知サレトモ、以前ハ此事甚シク行ハレテ、婦女ノ人ノ面前ニテ堕胎ノコトヲ書コトヲ少シモ慚トセザリシ風習アリシナリ。勿論我国ニテモ皆無ト言ニハアラザリシカトモ大ニ外聞ヲ慚懼シシ者ナリ。

○公告コトノ流行スル時節トハイヘ、医師社会ニ迄波及シテ此度何所へ開業ストカ、或ハ何々科ヲ専修セリトカ等新紙雑誌中ニアラサルコトナシ。殊ニ甚シキハ印刷物ヲ配付スル等ノ手段ニ出ル人アリ。是等ハ商業的同様所為ニシテ其意志ノ鄙劣ナル、其品格ノ堕落セル、実ニ慨歎ノ外ナキナリ。

○往時ノ羽織ハ丈短カキ者ニテ、大約臀部ノ隠ルル許リノ者ニテ、勿論木綿ナリ。染ハ概シテ小紋ナリキ。黒ノ紋附ハ藩中ノ人若クハ医師等制外者ノ着スル所トス「医者ノ羽織ハ長ケレト逢タ其夜ノ短カサヨ」ト言俗謡ニ依テモ其長カリシヲ知ルニ足トモ、夫スラ膝頭迄ノ者ナリシカ、維新前ヨリ漸ク長ヲ加ヘテ目下ノ裾蹶ルカ如キ迄ニ至リヌ。

4. 疫病のこと

○予ハ四歳ノ時痘瘡ニ罹リシ由ナレハ何事ヲモ不弁トモ、ピンピン馬・不倒翁(オキアガリコブシ)・猩々、食物ニモ赤飯・赤メバル等総テ赤色ノ物ヲ以テ枕頭ニ充サレシナリ。

○予カ廿三、四歳ノ頃ナリト覚ユ。犬ノ病ヒ流行シ其状ヲ概スレハ、神思沉鬱シ吼声ヲ出サス、涙液アリテ食思ナク歩行蹣跚遂ニ仆イトレテ死ス。依テ一時ニ犬種断絶スルカト思フ程多ク斃レタリキ。其後鶏類ノ斃死多カリシコトモアリキ。

○四十年前頃迄ハ時々天然痘ノ大流行アリテ(種痘法モアリシカト信スル人少クシテ種痘済ノ児モノ亦少カリキ)夥多ノ児童ヲ奪ヒ去ニキ、其中或年井口村ニテ猖獗ヲ極メ(草津古江両村ハ種痘済ノ児少カラサリシ故甚シカラサリキ)児童ノ十中八九ハ鬼籍ニ登リヌ。然ル所以ハ彼地ハ真宗甚シクシテ如斬新業ヲハ自力所為ナリトシテ、悪忌ミミテ之ヲ敢ンゼザリシ故ナリ。之ニ就テハ僧侶罪ナシトスヘカラス特ニ甚シキハ高度ノ発熱中紫斑ヲ発シ発症ヲ見スシテ死セシ者往々アリシ景況ナレハ、其悪性ナルコトヲモ想像スヘシ。就裡稀ニ種痘済ノ児アリテ病児ト同シク起臥シテ安然タリシヲ見テ、愚夫愚婦モ始メテ其効力ノ空シカラザルコトヲ感シテ、爾来自力説ノ迷信霧消シタリ。

○井口村ノ西ノ方ニ神社アリテ‘カッポウサン’ト称シテ、天然痘ノ流行時ハ広島辺ヨリモ参詣人少ナカラサリキ、扨此‘カッポウ’トハイカナル事カ弁ヘサリシカ、広島ノ中島ノ裏ノ町ニ‘トウカサン’ト称スル所ノ神社アリテ、是稲荷ノ音読ナレハ此カッポウモ亦活庖ノ音読ナルヘシト考へ得タリ、多分愚考ニ違ハサルヘシ。

○明治十二年ノ夏ヨリ秋ニ渡リテ虎列刺病大流行シテ此里ニテモ六十名計リノ死亡者ヲ出シヌ。

○明治十八年四月ヨリ起リテ麻疹大流行。

○明治十九年夏虎列刺病発生シテ此里モ五月ヨリ多数ノ病者ヲ出シヌ。

○明治二十四年、去年ノ五、六月頃流行性感冒発起シテ今年二月ニ至モ其勢ヒヲ減セサルノミナラス老人ハ多ク不起ナリ。

○明治二十六年ノ七月ノ初旬赤痢大流行、九月ニ至リテ、漸ク其勢ヒヲ滅ス。

○明治二十八年六月頃ヨリ虎列刺病発生シ、七月ニ至リテハ此里モ漏レヌコトトナリヌ。コハ征清人ノ持帰リシ物ナリ。

5. 診療のこと

○平常ノ常伺ハ朝出勤シテ殿様ナレバ御小姓ノ詰所ニ行テ伺、出勤ノ旨申述レハ、御小姓ノ案内ニテ拝診スルナリ。御婦人方ナレバ御広式御小姓組ノ席ニ至リテ、其旨申述レハ御小姓組ノ案内ニテ拝診ス。御両方様共ニ平常御次ノ間ノ敷居迄歩シテ進ミ、其所ニ座シテ一拝シテ夫ヨリ御側ヘハ膝行ス(スベリ込ナリ)、凡ソ三膝行位ノ物ナリ。拝診ハ御男子ハ左手ノ御脈ヨリ始メ御女子ハ右手ノ御脈ヲ先トス。次ニ御舌上ヲ伺ヒ此二診ノミニテ済ナリ。夫ヨリ又御次ノ敷居迄退却膝行シ一拝シテ立テ退キ、御小姓組ノ席へ帰リテ案内セシ御小姓組ニ向ヒテ「御ヨロシウ入セラレマス」(異状ナキヲ言ナリ)ト申述テ退出スルナリ。老女ノ詞ニテハ御病室ニ入セラルルヲ「御帳ニ入セラレマス」ト言、御食餌ノコトヲ「御台ヲ召上ラレマス」ト様ニイヘリ。

○予カ廿二歳、大州ノ鎌田氏ヨリ帰省中△▽□□助・■■衛ト言兄弟ノ者、山代ノ本郷ヨリ来住セシ者アリシカ、□□助ノ妻ハ四十余歳ニテ乳岩(癌)ニ罹レリ、其頃迄ハ広島ノ外科ニ如斯手術ヲ行フ者ナシ、依テ之ヲ切除セン事ヲ請テ不止、予ヤ其術ヲ目撃セシコトハアレトモ自ラ行ヒシ事ハ無リシカトモ大胆ニモ之ヲ諾シ、例ヒ依テ手術中下側(測)ノ変アリトモ苦情ナシトノ一札ヲ出サシメ、弟■■衛カ宅ノ少シク広キニ依テ之へ移シ、其頃ノ代診生金子元郁(兄ハ浅野豊後ノ譜代ノ医師ニシテ金子元達、後改敬助今三十三年五月六十八歳ニテ没ス)ノ一人ヲ介手トナシ、例ノ麻沸湯ヲ服セシメ感覚ヲ失フラ待テ手術ヲ施シシニ、思ヒシヨリハ容易ニ術ヲ了タリ。其後傍発症モナク、再発ノ徴モナクシテ漸次治癒セリ、斯テ一年計ノ後此夫婦ハ復ヒ本郷へ帰シカ、折々ノ伝言変状ナキ事ヲ報セリ。 【筆者注:大須ノ鎌田氏=鎌田玄台】

 然ルニ今ヨリ六、七年前一日一老婦アリテ予ニ面センコトヲ請トノ事ニ出テ見、之ハ六十有余ノ白髪ノ老媼ニシテ其誰人タルコトヲ認メス、渠低頭平身シテ曰ク、御忘レデゴザイマセウガ私ハ□□助カ妻デゴザイマス、御陰ニテ今日迄息災ニ暮シテ居リマス、此度久シ振ニ此地へ参リマシタデ御目ニ掛リタク御礼モ申上タクト存ジマシテ上リマシタト言テ、少シノ土宜ヲ出シタリ。イカニモ能々見レハ若キ時ノ面影ノ在セルモノ有テ、互ニ無事ヲ視シテ別レシカ、其後如何セシヤ、此面会ノトキ□□助ハ既ニ無人ノ数ナリト語リキ。此手術力予ノ初メテノ終ニテ他ニ大手術ヲ行ヒシ事ナシ。痔漏ヲ切断セシ位ノコトハ度々アリシカ、弟ノ■■衛ハ現ニ上町ニ在テ健在ナル住田七兵衛ニシテ活計モ追年饒ニ成シ様ナリ。天郁ハ此事アリシヨリ後多年ナラスシテ病没セシ由、遥後ニ伝聞セリ。

○明治二年ノ正月ノ初メ奥羽戦争ヨリ帰リテ程モナク、志和ノ奥屋村ナル神機隊ノ屯集へ在勤ヲ命セラレテヨリ同三年ノ八月迄在シニ、病ル所アリテ帰宅ノ命ヲ被リヌ。

○或持家法ノアルマンス膏ヲ煎煉スルニ、有合セノ竹ノ一条ヲ以テ之ヲ混合セシニ、幾度烹替テモ粘着力少ク如何トモスルコト能サリシニ、後木条ヲ以テ之ヲマセシニ常ノ如ク煉熟シ得タリ。然レハ煉膏ニハ竹条ハ粘カヲ奪フノ害アルモノニヤト心得タリ。不思議ノコトナリト言ヘシ。後年コソ何トモ思ハネ此膏薬ハ西家祖先ヨリ相伝セシ者ニテ、所謂秘伝ノ法ナリ。故ニ之ヲ攪拌製煉スルニモ丁寧ニ取扱ハレシトノコトナリ。

○コレノ里ナル □□□□妹ミヨハ、久シク癌煩イテ明冶二十一年二月の一日、遂ニ空シウナリオハシヌ。ソカ言置ケルコトニヨリテ二日ノ日、教専寺庭ニテ局処解剖ヲ行イヌ。医学士遠藤洋、同島田寛吾、中学校ノ教諭森集其他同業諸子十余名参会せり。鳴呼此ミヨ女ノ程コヨナイ覚エテ墓碑営ミ建テ朽ヌ名ノミヲ残サマホシサニ表ノ文字ハ軍医長長瀬時衡氏ニ請テモノシクリ。

 “もちゐへきかたのなき身を世の為と もちゐしめたる身そめてたかる”佐伯郡草津村弐拾邸
   平民商 □□□□ 妹ミヨ
         当三十年八ケ月
右之者病気之処二月二日午後一時死去候ニ付テ
ハ草津村教専寺ニ於テ三日午後二時ヨリ局処解
剖施行仕度依テ本人素願書相添差出申候門至急
御許可被成下度此段奉願候也
           佐伯郡草津村九十五番邸
         明治二十一年二月三日 主任医師小川清介
廿日市警察署長
 警部三宅重義殿
廿警第五十四号
書面願之趣聞届候事
    明治二十一年二月三日廿日市警察署長
           警部 三宅重義 印

6. その他

○友之助様たよ姫ハ孰レモ広島ニテノ御妾腹ナレハ、一度ハ江戸へ御参府ノ上公儀へ御届ニナリ表向ノ御家族トナリ玉フ例ニ任セ、御参府ノ節御両人御一緒ナリシ由。其御供ニハ祖父元精翁被仰付ラレタリトソ。所々ノ御宿札ハ安井某家内トアリシ由。浅野トモ松平トモ称ヘラレサリシ故ナルヘシ。此安井氏ハ御先祖弾正少弼長政公ノ御実家ナレハナルヘシ(饒津神ナリ)。其後たよ姫様ハ御縁談相整ヒ、不日御引越可被成ノ所、天然痘ニ罹リ玉ヒ遂ニ御逝去被遊シ由。御逝去ノ後何日ニヤ御生時ノ如ク白粉及ヒ紅ニテ装ヒ、御衣服モ亦御盛装ニテ是迄御附申セシ人々ハ不残御目見エシタリトソ。予カ家ニ老女ヨリ貰ヒシたよ姫様ノ御文ノ下書アリ。修理太夫様ニテ御伯母ノ宛ナリ。此修理太夫ト有ハ日向ノ飫肥ニテ伊藤候ナリト言。

■ 参考文献

  • 小川清介著:「老のくりごと」全5冊 小川氏蔵書
  • 小川清介著:「桃乃屋集」 小川氏蔵書
  • 小川清介著:「老のくりごと」第1、第3:1978年学習研究社、「日本都市生活史料集成第四卷 城下町篇二」p174〜237、に収録

謹誌:小川新

(掲載)「広島医学」Vol.32 No.4 、197

参考資料

・小川清介に関する文献
   広島県医人伝(廣島縣醫人傳)」第1集 頁30
・西有圭(有慶・敬次・朴二)に関する文献
   江川義雄著「広島県医人伝(廣島縣醫人傳)」第2集 頁30

江川義雄著「広島県医人伝(廣島縣醫人傳)」(広島県医師会HP「廣島縣醫人傳」 PDF)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

「雨亭」 大田南畝

小川古医書館蔵

「雨亭」 大田南畝書

Uteiootananpo_2

雨亭 南畝覃(ふかし) 落款:屬山、南畝

大田南畝が 安芸国佐伯郡己斐村(現広島市西区己斐) の茶室雨亭に立ち寄りし折書けるものか。 【南畝の「小春紀行」巻之中の文化二年十月二十三日(1805年12月13日)の記載に廿日市から草津・己斐を通り広島城下に至ったとある】

・大田南畝(なんぽ)

寛延2年3(1749年4月)文政6年4月(1823年5月) は江戸時代を代表する天明期の戯作者・狂歌師大田南畝-Wikipedia

・雨亭

小川意が広島藩主浅野斎賢公より広島湾を望む己斐の丘に別荘雨亭を拝領。広島の城下を訪れる多くの文人・学者がここに逗留す。

・小川意(むね)、敬元・号蓬山(本姓赤松)

広島浅野家侍医。詩文、書をよくし、天下の文客と広く交わる。広島藩修業堂医学所教導筋万端引受とあり教導所の校長たり。浅野家侍医小川東郭敬元の実子。天保6年7月11日卒(1835/8/15)、72才

蓬山先生雨亭記(先生手書)
雨亭記
 

雨亭者故伯父鳳州福山先生官暇遊息之處也 亭有五勝品先生之所撰曰天女峰曰廣陵潮曰小芙蓉曰禹時灘曰松林洞亭下之廬曰蓑笠庵亭園唯有一大山櫻別無園趣盖不假成趣也 先生下世後其子肅夫以亭属家君亭於是乎 為家君之有焉 仍舊曰雨亭家君復嘗買亭側之數畝之壬申之春余復搆子字於其處是為西亭与雨亭相距僅數歩高亦不過數級而海山之観則倍焉 不樊不籬田間特植雜樹數十株耳 後賴春水来遊使余植薔薇以界之今之有薔薇樊者春水之為也 亭則一仍舊造而不敢變改要在存舊無家君之志也 先生病痱不便行歩或棹孤舟或命肩輿従子姪門弟子容與諷詠有時信宿而去以為常矣 又嘗自掲數字曰有人楽無人亦楽先生之高懐亦可概而知矣 白杏公子屡枉駕必賦詩論文似追慕遺蹤者又教近臣武揚州作圖徴集諸家寄題而賜之公子亦親書扁字唐津鳳彩塬矦東覲之次五馬貢臨又有揮染之興遂及扁字君子以為栄焉 盖先生有此亭而還遇知名及善書必需扁字遇善画必圖眞景是以門客知故其或遠遊而帰必携數紙贈之亦以為常矣 今既至於累數巻徃春水自游洛帰亦以數紙見贈余其他可知也已 顧閥閲豪富之其園荘之在府下者輪焉 奐焉 其多又幾許乎 而徒為酣宴漫遊之射釣漁之具而無聞於大人君子之際者亦復幾許乎爾 則土地之顯晦汚隆亦非有時而然乎 抑又在人乎 余於是感先生之徳者一年深於一年矣 若其景象梗概則具於先生之集及弟定之記与武揚州之圖故不復贅焉

文化十一年甲戌冬十二月 蓬山赤松意撰

【注】

  • 福山鳳州鳳洲):享保9年-天明5年[1724-1786]、 法橋杉山元瑞(広島藩医)の実子。小川意(ムネ)(本姓赤松)の実父小川東郭敬元の兄弟(小川意の伯父)。儒者。林天真の父。広島藩家老上田氏の臣。本姓杉山。名は貞儀。字羽卿。号雨亭・松門。
  • 公:安芸広島藩七代藩主 浅野重晟(しげあきら)
  • 白杏公子:浅野長懋(ながとし)  浅野重晟の実子
  • 弟定:中西元瑞(1767-1831)、名は定、号桂海、小川意の実弟。
  • )春水 :広島浅野家儒者。山陽の父。(1746-1815)賴春水-Wikipwdia
  • 文化十一年甲戌冬十二月:グレゴリオ歴1815年1月〜2月
  • 白杏公子:浅野重晟の実子

語注:酣=たけなわ:徃=いにしえ

記・ささふね

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ドドネウス本草図説(1)

[広告]月刊誌「ナショナルジオグラフィック日本版」

________________________________________

ドドネウス本草図説(全3冊)
小川古医書館蔵

度度涅烏斯本草図説/原書者;レンベルトゥス・ドドネウス、REMBERTUS DODONAEUS、Rembert Dodoens,/図版を模写したもの

Dodoneusu_honzo_zustu_2

ドドネウス本草図説 第1巻より

Dodoneusu_honzo_103

Dodoneusu_honzo_104_2

Dodoneusu_honzo_105_2

レンベルト・ドドエンス, Dodoens,Rembert [1517-85](ラテン語名レンベルトゥス・ドドネウス):ベルギー生まれ、医師、本草学者、ライデン大学教授。1554年『本草書』(フランドル語)を刊行した。『本草書』として、1659年にオランダ商館長から将軍に献上。(「水尾一郎の自然誌」より)

[Dodonaeusの日本語表記;度度涅烏斯,独度涅烏斯,独々涅烏斯,ドドネウス/Dodoensの日本語表記;ドドエンス]

______________________________________________________

[広告]月刊誌「ナショナルジオグラフィック日本版」

_______________________________________________________

| | コメント (0) | トラックバック (0)

阿蘭陀外科起回明鑑巻一

阿蘭陀外科起回明鑑巻一

吉永升庵[著]・吉永升雲[書] :全7巻、7冊

Orandagekakikai100r0018019

・小川古医書館蔵

続きを読む "阿蘭陀外科起回明鑑巻一"

| | コメント (0)

「西客対話」 石川玄徳 録(再掲)

[広告]月刊誌「ナショナルジオグラフィック日本版」

_____________________________________________________________

「西客対話」 石川玄徳(一橋医官)

出島商館医官との会見記録

  1. 寛政六甲寅年五月(1794) 
  2. 享和二年壬戌三月(1802)

R154seikaku_taiwa01_4

■1.西暦1794年5月下旬(寛政6年4月下旬)、江戸参府中の“オランダ東インド会社”出島商館長一行と日本人医学者との会見記録。

寛政六甲寅年五月(1794)の会見に参加した人物と日時の部分を抜粋

四月晦、月池桂川法眼と共に二人なり、舌人加福安治郎今村金兵衛通訳す。
五月二日、余一人接問に至る金兵衛通弁す。
五月五日、桂川甫周、栗本瑞見、佐藤幽仙、大槻玄沢、宇田川玄随、余玄徳六人なり。

また、この時の日本側医師による会見記録には、石川玄徳の「西客対話」の他に、大槻茂質による「甲寅来貢西客対話」 がある。

この「甲寅来貢西客対話」は寛政六年五月四・五両日の記録である。

大槻茂質による「甲寅来貢西客対話」は、《早稲田大学 古典籍総合データベース、「西客対話 / 大槻茂質 録」》より閲覧できる。

Seikakutaiwa1794sanka

■2.享和二年壬戌三月(1802)の記録

“オランダ東インド会社”出島商館 医師レツテキとの問答

冒頭文より

・・・ 西医レツテキト問答セシ事ヲ記載セリ (享和二年)三月二日 旅館長崎屋源右衛門カ家ニ於テ初メテ西洋人対面ス 姓名下ニ挙ルカ如シ 外科レツテキハ往年戊午ノ歳ニ初テ東都ニ来リ今年又来貢ス 音写ニ一萬里外知己アルモ我邦ノ馨徳ノ厚キ餘光ニアラスヤ 暗ニ一聨ヲ賦シ得タリ 五大州中慕馨徳一万里外存知己

西洋人姓名
 加比丹役者 (姓)ウルレ厶 (名)ワルデナル 齢四十一
 書記役者 (姓)マルテン (名)マツク 齢二十一
 外科医師 (姓)ヘルマニス (名)レツテキ 齢三十三

【補注】往年戊午ノ歳:寛政十年、西暦1798年

「西客対話」 石川玄徳

小川新所蔵[小川古医書館蔵] 本文二十八丁

Seikaku_taiwa02_3

Seikaku_taiwa03_4

Seikaku_taiwa04_3

byささふね

____________________________________________________________

[広告]月刊誌「ナショナルジオグラフィック日本版」

_____________________________________________________________

| | コメント (0) | トラックバック (0)

明治20年の「薬価治療代金表」

[広告]月刊誌「ナショナルジオグラフィック日本語版」

_________________________________________________

明治20年の「薬価治療代金表」

明治期の広島地方の薬価は、薬1日分米1升といわれていた。

明治期の米価と薬価

・明治 4年:米1升 6銭、薬1日分5銭
・明治12年:米1升 7銭、薬1日分5銭
・明治30年:米1升12銭、薬1日分8銭

「薬価規則」(明治20年 佐伯医会) [小川医学図書所蔵]

Tiryoudaikin_m_22_00

水薬      1日分  6銭
・丸薬     1日分  6銭
・散薬     1日分  6銭
・煎薬     1日分  6銭
・兼剤     1日分  3銭
・頓服薬   1回分  6銭
・振薬    1日分  2銭
・含薬    1日分  3銭
・皮下注射 1回分  5銭
・灌腸術   1回分 10銭
・膏薬     1具に付き  1銭〜3銭
・点眼薬   1瓶に付き  3銭〜5銭
・エレキ術  1回分  6銭
・蒸術     1剤分  4銭
・巴布剤   1剤分  4銭
・洗滌水   1剤分  4銭
・塗擦剤   1瓶剤  3銭〜6銭
・耳洗     1回   2銭
・散布薬   1回分  1銭
・蒸気吸入 1回分 10銭
・坐薬     1固に付き  2銭
・繃帯     1軸に付き  5銭〜15銭
・診断書料  30銭〜1円
・手術料   10銭〜3円
・診察料   10銭〜30銭 (但し服薬するものは此の限りに非ず)
・往診料   1里毎に  50銭を要す

 右薬価徴収期限は年6回とす
  2月、4月、6月、8月、10月、12月

___________________________________________________________

[広告]月刊誌「ナショナルジオグラフィック日本語版」

| | コメント (0) | トラックバック (0)