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広島藩における医学起証文(起請文)について

広島藩における医学起証文(起請文)について

小川新(広島市 医師・日本医史学会会員)
広島医学32巻5号(昭和54年5月)

今や第二次大戦後の日本に於ける民主々義時代の学校教育の問題が、大きな社会問題になっているようだ。教育とは何かという最も基本的な問題について、考え直す時にきているように思う。

教育が善悪の問題を含めて政治によって支配されがちであった事は、昔から今に至るまで変わりはない。というのは、所謂権力サイドからの教育と被支配サイドからの教育について、もう一度じっくり考え直す必要があるように思うからである。

ただし、現今のように、どちらが権力をもっているのか分からないような時代に於いては、現在の行政政府と公務員とは必ずしも権力機構ではなく一方は民主という名の金力と、一方はまた、民主という名を大衆におしつけて、ジャーナリズムにアッピールする時代になっていることは、まことに歎かわしい次第である。

ただ、医学の世界は人類の福祉、国民の福祉、大衆の健康、一切の生物の生存という生命を尊重することが大前提になっている。今、私が公開に供しようとする資料は、必ずしもこれに応えうるものではないが、何等かの意味に於いて、少しでもその問題に対する示唆を与えることができれば幸甚と思っている次第である。

なお、広島医学史の大先輩石田憲吾先生が、一度この門人帳を調べてみたいということをいっておられながら果たされなかったので、その要望に応える意味に於いて小川家所蔵のものを公開し、解説を加えてみたいと思う。

■入門誓紙(第一巻)

●小川升運一世に対するもの(金創外科,阿蘭陀外科)(写真1・2)

敬白起請之事

一.貴老金瘡外科之方数年懇望候ニ付 今度御弟子ニ下シ成サレ候恭ケナク存ジ奉リ候以後者御相伝遊バサレ候儀他言御書物他見仕リ間敷ク候
一.自然ノ儀御在候ハバ書物焼捨テ申スベク候

右之条々相脊候者

恭茂(カタジケナクモ)伊勢天照大神惣而(ソウジテ)日本国中大小神祇氏八幡宮之御罰ヲ蒙リ申スベシ仍ツテ件(クダン)ノ如シ
  延宝五年己霜月十六日
(1677)
           吉益半卜(花押)
  小川升運老

(写真1)

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(写真2)

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  • 岸升甫: 寛文10年8月8(1670)       (写真2)
  • 伊藤吉左衛門: 延宝5年9月17日(1677)
  • 吉益半朴: 延宝5年己霜月16日(1677) (写真1)
  • 川井文右衛門: 同上
  • 龍神次郎太夫: 延宝7年卯月25日(1679)

●小川升運二世に対するもの

  • 矢渡道朴: 元禄15年6月4日(1702)
  • 小林角弥: 宝永4年正月27日(1707)

●小川敬元(蓬山)に対するもの(写真3)

起証文之事

一.私儀年来笠坊長庵様御門人に罷有リ候所 此度御門ニ下シ成サレ有リ難キ儀存ジ奉リ候 右ニ付キ自今 御門風規則違脊仕リ申ス間敷ク候 後日ノ為証文 件ノ如シ

   文政九年丙戊十一月廿四日
            山県郡上殿村 今田泰珉 弥隣(花押)

  医易塾 御頭取中様

(写真3)

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(写真4)

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  • 斎藤宣郷: 文化8年正月(1811)
  • 井関玄龍 雅武: 文政8年4月20日(1825)  (写真4)
  • 今田泰珉 弥隣: 文政9年11月24日(1826) (写真3)

■入門証状(第二巻)(写真5)

起証文之事

一.此度私儀御門下ニ被成下候儀奉存候 然ル上者一切御門風之儀相守可申 尤御家方御家書御伝授之儀他言他見仕間敷儀者勿論雖為親子兄弟非其人則決而相洩申間敷候

右之条々於相脊者
氏八幡就中
弥山三鬼神可蒙冥罰者也 仍而証状如件

(写真5)

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  • 北条清斎16才: 文政10年7月 (山県郡穴村来見鍛治所平二子
  • 井上三精: 初学医於豊岡道伯 従先生適於東部 文政11年3月入門(1828)
  • 山田養春: 山田寿軒之子、文政12年正月入門
  • 熊谷左門 宗敬 字菅子: (定京都) 文政12年5月10日
  • 長川亨哲20才: 文政12年9月8日(豊田郡大崎島東野村 碩庵男)
  • 岩田隆菴 名信義 字志道 35才: 文政13年正月7日(豊田郡大草村再造男)
  • 野坂立仙 16才: 文政13年正月17日(厳島野坂玄沢二男)
  • 金屋助次郎 19才: 文政13年正月28日(防州岩国本町本姓小池金屋久右衛門伜)
  • 山本建二44才: 文政13年8月12日(高宮郡中深川村 本姓山本 水上屋吉蔵伜)
  • 川田文調 直之: 天保2年10月12日(1831)、(防州岩国玖可郡伊蔭村 川田助之進伜)
  • 荒木大珉 正信: 天保4年7月18日(世羅郡川尻村医師荒木大成伜 二男)
  • 柄崎理助 義正31才: 天保5年4月4日(豊田郡沼田荘下南方村 組頭 百姓 柄崎茂助伜)
  • 天野屋修作 信愛18才: 天保5年4月28日(三上郡庄原町 社倉支配 天野屋敬八郎伜)
  • 小塚常太郎13才:  天保5年5月15日(広島胡町三次屋伊右衛門伜)
  • 松浦春斉28才:  天保5年12月12日(豊田郡小林村 百姓 殿垣内丈蔵次男)
  • 野津春哉17才:  天保6月2月(堀川町医師野津桃庵弟)
  • 松尾道順24才: 天保6年6月(世羅郡青水村医師松尾正軒伜)
  • 福光元悦 政秀46才: 天保7年8月(恵蘇郡木屋原村)
  • 香川秀策26才: 天保10年9月(山県郡戸谷村)
  • 宇都宮三省30才: 天保11年4月(高田郡上小原村 十郎左衛門伜)
  • 佐々木清之悉18才: 天保11年10月(沼田郡小河内村 庄三郎伜)

■第三巻

  • 宮地俊良実重18才: 天保13年7月25日(1842)(豊田郡沼田荘梨羽郷上北方邑百姓横山勇三郎二男、尾道東土々町唐津屋新三郎養子)
  • 水野元英光忠18才: 天保15年3月27日(佐伯郡原邑医師水野元龍伜)
  • 高沖左内28才: 天保15年7月10日(豊田郡宇山邑百姓平田良伜)
  • 岩田一貞18才: 天保15年11月2日(豊田郡大草村医師岩田隆庵伜)
  • 天野俊平*15才: 弘化3年4月22日(1846)(安芸郡奥海田村医師天野玄霞伜)
  • 園部宗謙 実名忠和20才: 弘化4年2月15日(園部三益伜)
  • 舟川松意利渉18才: 弘化4年3月10日
  • 佐竹玄白* :  弘化5年正月
  • 伊藤賢祐32才: 弘化5年正月(沼田郡伴村伊藤敬順二男)
  • 今井昌菴* 17才: 弘化5年2月20日(防州、|玖珂郡伊蔭村士今井権平伜三男)
  • 森元隣*  実名信重25才: 嘉永元年4月15日(1848) (森栄元伜)
  • 岩政祥策*18才: 嘉永5年8月29日(防州玖珂郡新庄巴 医師岩政厚順伜)
  • 長光文礼: 安政4年2月15日(1857)(世羅郡吉原村医師長光首礼伜)
  • 岩田文斎18才: 万延元年9月朔日(1860)(豊田郡大草村 岩田隆庵二男)
  • 今田言察* 23才: 元治元年甲子孟秋22日(1864)(芸州山県郡上殿河内邑 医師今田寿仙伜三男)
  • 白石道哉* 16才: 元治元年甲子秋25日(芸州高田郡三田邑 医師白石良益伜)
  • 高橋宗的63才: 慶応元年5月21日(1865)(加茂郡志和七条樺坂村 友堅伜)
  • 毛利元洞16才: 慶応元年9月18日(高田郡有留付 医師毛利元郁伜)
  • 高橋元貞31才: 慶応2年3月12日(加茂郡志和七条樺坂村 医師高橋宗的伜)
  • 水野泰亮18才:  (年号不明)2月2日 (佐伯郡原巴 医師水野元英伜)

       (注)*印は次の婦人科誓約之事lこ再出している。

●婦人科、小川道仙に対するもの(写真6)

誓約之事

一.御家婦人科之一流我等執心ニ依ッテ御伝授下シ成サレ候 師思浅カラズ存ジ奉リ候事
ー.病家ニ於イテ堅ク御家法ヲ格ク守リ貧富ヲ分タズ深切ニ療治ヲ施シ更ニ我意ヲ起シ或ハ他流混雑申ス間敷事
ー.御口授并ニ御手術他見他言者申スニ及バズ親類近友為リト雖モ猥リニ見セ申ス間敷事
一.堕胎之術者勿論他家ヨリ堕胎之法ヲ行ヒタル跡ニテハ決シテ療治致シ申ス間敷事
一.治術精練ノ上御請ケ下サレ候へバ思召之上御免許一軸并ニ御剪紙口伝授ケ下サル可ク候有リ難キ次第存ジ奉リ候 尤モ其ノ人熟習ニ堕シ許シ為サレ候儀ニ御座候者其節我等未熟ヲ顧ミズ其ノ人上達ヲ羨ミ我等先輩ナリト存ジ申ス間敷事
一.御免許指出レズ御門下并ニ御破門ノ輩且亦謂ナキ御流儀申立執リ行ヒ仕リ候者之レ有ル候者御家法穢サザル内急速相改メ禁治術ヲ御達申シ上グベク候 窺ズシテ我々門弟子執立申間敷候事

右六ケ条疎路ナク守持仕ル可ク候 若シ違脊ニ於テハ何等ノ咎罪為ト雖モ毛頭遺恨ヲ挟マズ畏奉ル可ク候者也 依ッテ誓文件ノ如シ

  嘉永六年正月
         佐伯郡原村水野元龍伜
            同姓元英(花押)光忠

   東水小川先生

(写真6

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  • 水野元英 光忠: 嘉永6年正月(佐伯郡原村水野元龍伜) (写真6)
  • 今井昌菴 重信: 嘉永6年正月(1853)(防州玖珂伊蔭村 今井権平伜)
  • 岩政祥策 ー亀: 嘉永6年正月(防州玖珂郡新庄邑 岩政厚順伜)
  • 天野俊平: 嘉永6年正月(安芸郡奥海田村 天野玄霞伜)
  • 森玄隣 信重: 嘉永6年正月(森栄元伜)
  • 佐竹玄丈 致遠: 嘉永6年2月
  • 白石道哉: 元治元年12月(1864)(芸州高田郡三田邑 白石良益伜)
  • 今田言察 照清: 元治元年12月(芸州山県郡上殿河内邑 今田寿仙伜)

考察

上記第二巻と第三巻には、誓約した先生の名前が記してない。今この当時の医学教育の状勢について、富士川游先生の日本医学史を参考としながら述べてみたい。

古くは大宝元年、唐制にならって大宝律令が制定せられ、医学教育の制度がたてられ、国医師及び専門科名、試験等について総合的医療行政が完備せられたが、この理想は間もなく廃頽したという。

その後、鎌倉、室町時代を経て、安土桃山時代、江戸時代初期に至るまで公的医学教育機関はなく、江戸中期、多紀元孝によって、明和2年(1765)神田佐久間町に躋寿館が創立されるまでは、教課を組織的に教授する所はなかったといわれている。

また、京都に於いて畑黄山が、天明元年(1781)医学院を創立したが、その頃から全国各藩に於いて相次いで設立せられたという。即ち、秋田藩・明徳館、金沢・明倫堂、和歌山、米沢、佐倉、徳島、福井、津、水戸等々が設立せられた。

広島藩に於いては、天明3年(1783)、京都の医学院創立の翌々年、藩学問所の開館、翌年全国に先がけて、藩医梅園太嶺が儒員として初めて医学を教授したが、藩が朱子学を奉ずる方針をとったため、古学派の梅園は1790年免ぜられたので、家塾を開いて子弟を教授するとになったという。

寛政5年(1793)、藩命により修業堂医学所が開設され、梅園太嶺は再び医学を講ずることになったというのである。しかし、文政11年(1828)廃止されるまでの35年間のみ藩の行政で医学教育が推進された。何故これが廃止されるに至ったかは明らかでない。

この資料に出てくる藩医小川敬元(恭意、蓬山)は、この修業堂医学所筋万端引受になっていたので、地方としては、このように門人が多かったのではないかと思う。梅園太嶺の卒後、この敬元が医学所の教頭を務めていたものと思われる。その点、加茂郡寺家村に於いて塾を聞き、医学生を含めた多くの子弟を育てた野坂完山、佐伯郡廿日市町の高木周沢が、文政10年(1827)から嘉永6年(1853)まで、約70名の医学生 を教育したということは、特筆大書さるべき功績ではないかと思う。

ここに体制側によって行なわれる学校教育と、無体制側によって行なわれる私塾教育の問題は、昔から現在に至るまで自然発生的なものとして多くの示唆を含んでいるようだ。一般に名の欲しいものは体制側に、実力派は私塾側にという傾向は今に於いてもかわることはないようだ。

初代升運の起証文は、いわば私塾的なもので、師弟の間の情熱はその文面及び書体に明らかに現われていて面白い。その点、第二、第三巻は巻頭に起証文を書いであるだけで、後は全部自らの署名のみであるが、道仙(東水)の婦人科のものは、医業所廃止後の私塾的なものに帰った時のものであり、その誓約書は一枚ずつ全部が自筆せられたものである。

次に婦人科誓約書について少し考察を加えてみたい。この道仙は、京都賀川家の門弟であったといわれるが、一貫町賀川正系の門人帳は現存しないし、その詳細は目下不明であるが、賀川流の初代玄悦の弟子であった片倉鶴陵(産科発蒙の著者)の門人に対する誓約書と大体似ているようだ。賀川流の誓約書の流れをくんだものは、大体このような様式であったのではないかと思われる。初代玄悦の産論をはじめ、産科学の分野に於いて国際的業績を挙げていた賀川流に於いても、科としては婦人科という名称になっており、今日のような産科という分類はなかったらしい。また、片倉鶴陵に於いても道仙に於いても、賀川流は凡て堕胎を禁止しているし、他人の行なったものの後始末をも禁じていたようだ。しかし、賀川流以外の他流に於いては、堕胎を禁じてはなかったのかもしれないが、現代の日本の実情をみるにつけても、まことに想像できないことのようだ。無制限に近い堕胎手術の弊害をみるにつけても、もっと真面白に考え直す必要があるようだ。

なお、二巻の終わりから三巻にわたる誓約書のうち天保7年から天保11年に至るまでのものは、誰の弟子であったのか一寸不明である。即ち、小川六代の医家、小川敬元の死亡は、天保6年7月11日になっており、次男養子、藩医元精(小川分家の祖)も天保7年、江戸で卒しておるからである。しかし、元精の跡目相続をした婦人科の道仙が、一般医学を引き続いて教育していたのではないかと思われる。敬元の子、元調(本家小川)が藩医となったのは弘化5年(1848)であるから三巻の弘化以降、慶応に至るまでの一般医学を志望するものは、この元調の弟子として入門したのかもしれない。同一人物の誓約書が二つあり、重複しているということは、道仙卒(元治元年・1864)に至るまでは、一般医学と併せて婦人科をも勉強した弟子があったのではないかと思われる。

【参考文献】

  1. 富土川游:日本医学史
  2. 日本産科叢書、第廿五産術奥義秘訣
  3. 杉立義一:賀川玄悦と賀川流産科の発展
  4. 賀川玄悦顕彰会、賀川玄悦没後二百年記念集
  5. 古賀十二郎:西洋医術伝来史
  6. 広島県史、近世資料編6
  7. 広島県医師会史
  8. 林保登:芸藩輯要
  9. 玉井源作:芸備先哲伝
  10. 江川義雄:日母広島県支部会報、昭和40年8月1日(第5号)

【注】

●小川升運(一世)正広:
生国広島、貞享5年6月1日[1688]卒68才、広島浅野家召し出され寛文5年[1665]。
《小川家譜より》「到東武初仕坪内惣兵衛殿
 、後仕土井遠江守殿、其後長崎御奉行甲斐荘喜右衛門※1殿与力相勤到長崎、有暇日吉永升庵※2為門人受外科医、皈東武後為剃髪改升運医術益盛隆而名於顕于世故加州中納言利常卿雖招呼之有故障再還芸陽玄徳院殿公(浅野光晟)応召拝領恩録賜五十石七人扶持」
(注 ※1甲斐荘喜右衛門=甲斐庄正述  /※2吉永升庵は相州稲葉美濃守正則侍医

●小川升運(二世)義広:
生国広島、享保11年7月24日[1726]卒48才、広島浅野家侍医。元禄14年[1701]楢林鎮山(新五兵衛)より阿蘭陀外科の免許状を授けられる。

●小川敬元(蓬山)意:
生国広島、天保6年7月11日[1835]卒73才、広島浅野家侍医、
 修業堂医学所教導筋万端引受。

●小川道仙深蔵:
生国広島、文久元年4月24日[1861]卒56才、広島浅野家侍医。

 

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Todo Yoshimasu as a Student

"Commemoration of Todo YOSHIMASU"

Published on 10 November 1973 in commemoration of the bicentenary of Todo YOSHIMASU

Todo YOSHIMASU as a Student

                    Yasuyoshi NISHIMARU[西丸,和義], M.D.

Students are truth-seekers, who pursue truth or what is correct persons who continue to proceed toward this goal all through their life.

Students, therefore, should continue to have a desire and a strong enthusiasm to seek truth. They should be mentally prepared,  that is,  have a philosophy,  for this cause. Students document for posterity what they have pursued all through their life. Their course of life should strongly influence their juniors and serve as a guide to people of other fields of science as well. These would be people who are called top-class characters from the world-wide point of view.

If we should seek such a man among the Japanese, he would be no other person than Todo YOSHIMASU[吉益,東洞] himself. This is clear from the complete collection on Todo and other books by Shuso KURE[呉,秀三] and Yu Fujikawa[富士川,游], the pioneers of Geibi[芸備] Province[today Hiroshima Prefecture].

Seeking truth

With reference to seeking what is true, Todo[東洞] stated, “Neither heaven nor sage exist without truth.”

Enthusiasm

As to his enthusiasm for seeking truth, when at the age of 42 years he fell into needy circumstances with his rice box empty and having his parents and younger sister to support, he declared, “It is destiny whether we become poor or wealthy,  and nothing we need worry about. If Heaven really does not want to lose medicine, it will never allow me to starve to death. No matter how poor and needy I may become, I will never give up my intention and disgrace my ancestors' name,” and he further stated,  “Even if I may starve to death, I would be quite satisfied if my principle is accepted in this world.” This reminds us of the following accounts of seniors. When Galen(130-210) was ordered by the Roman Emperor to accompany him to the field of battle, he refused this order, saying, “I am now experimenting on the spinal cord.” Pavlov(1849-1936) of Russia,  after all his assistants ran away as street battles began in the midst of the Revolutionary War, continued his experiment alone in his deserted laboratory, saying, “I am making a revolution myself.” The accounts of these seniors' enthusiasm for pursuing truth are perhaps the same as the accounts of Todo's enthusiasm. This shows how ardent his enthusiasm for seeking truth was.

When he was at the bottom of poverty and making dolls as a side work to barely eke out a living, Mr. Murano and other friends, unable to look on at his needy plight with indifference recommended him to Lord Sakura as his family doctor and he was accepted. They joyfully reported this to Todo but he refused,  saying, “Now I know you do not know me.” He is also reported to have said,  “I am practising and enjoying what is morally right. Why should I worry about my poverty?” This is like the following account of Dr. and Mrs. Curie of France. When they were carrying on experiments in a gloomy cellar of a night school in Paris with no regular occupation, the Geneva University saw their actual state and proposed to invite them to its completely equipped laboratory as professors, which they refused, saying, “This is the best place for our study.” Here we can see how Todo had lived making life as a student his first principle.

Mental attitude

The mental attitude for seeking truth, or philosophy for study, in his case,  is “Study of ancient lessons will help us to gain something useful.” For instance, perusal of his book “Kosho-igen[古書医言]” (Medical sayings in ancient books) shows that he seemed to have gained much from old Chinese books, especially “Roshi Shunju[呂氏春秋]”(chronicles of the Lȕ clan) and Tso's Henjyakuden[扁鵲倉公列伝] (Biography of Henjyaku[扁鵲], a noted doctor).

However, in order to succeed to the old tradition and make a step forward from it,  he had a philosophy for study,  which was, “If we stick to books too much, we will never in our life master the art,” “Nothing is acceptable unless confirmed by own experiments,  or “Preference for experimentation.” This mental attitude of his is similar to that of students in the days after Vesalius in the 16th century who took the lead in the Medical Renaissance in Europe. Harvey stated, “We should clarify truth by our own experiments, not from others' books or papers.” Jenner discovered the method of vaccination with this same mental attitude. The tradition of the Physiology Department, Cambridge University of England is “See and Do.” Six Nobel Prize winners have so far emerged from the department by this tradition, which is nothing but “Preference for experimentation.” From this, we can appreciate how great Todo’s philosophy for study is.

Documentation

The theory he thus gained was “All diseases are caused by a single “poison.” Drugs are all poisons. “Poison” is controlled with poisons. Our body becomes healthy by purging “poison.” Use of drugs does not serve to increase energy. What more is there to be said?”

Priest Honen left documented 2 days before death what he had pursued all through his life of 80 years. There is a western proverb that says “Our grave-post shows our words.” Claude Bernard(1878) said, “Life exists by homeostasis of extracellular fluid.” Like these, Todo's documentation is also very splendid.

Guidepost

This life of his served as a guide-post for his juniors not only during his life but also for 200 years after his death, as the following shows.

In guiding his pupils, he used to say, “You should not be bewitched by the fox of Chukei” and warned them not to swallow indiscriminately the writings and words of predecessors. He even said, “Don't observe the words from Yoshimasu's tongue.” These are wise words for his pupils to follow.

The “Ruijuho[類聚方]” (Medical Methodology of Collection and Classification) he wrote for people other than his own pupils became a best seller of the day. Some parts of it have been reprinted in China to serve as a “Bible” for Chinese medicine. Among the doctors who made original studies in the age of Edo,  Seishu HANAOKA[華岡,青洲],  who is internationally famous for his study on anesthesia, is a pupil of Nangai YOSHIMASU[吉益,南涯] who succeeded to the tradition of Todo. He perhaps succeeded in his scientific experiments because he learned Todo's study philosophy through Nangai[吉益,南涯] and was influenced also by western medicine.

Recently, Shuso KURE[呉,秀三], Yu FUJIKAWA[富士川,游], etc. studied Todo[東洞] and many people must have shared the recollection of Shuso KURE[呉,秀三]. who said. “After aspiring to study medicine, I have always admired Todo's[東洞] spirit and enterprise.”

The fact that votive offerings totalling 6 million yen were immediately collected in this plan to erect a monument to honor Todo YOSHIMASU[吉益,東洞] shows that even now there are many people who admire his character and look up to him as a leader.

From the above-stated, it can be said that he is a precious guide of life for not only those studying medicine but also those making other pursuits in life.

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Weblinks

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Illnesses Caused by A-bomb Radiation and Folk Remedies for them

November 1989

Illnesses Caused by A-bomb Radiation and Folk Remedies for them
-Wisdom of Folkway -

OGAWA Arata Ph.D./小川新(医学博士)

Contents
Preface   
1. Death Rate

2. Symptoms of Initial Radiation Damage

(1) Vomiting, Nausea, Anorexia   
(2) Diarrhea   
(3) Purpura of Petechia   
(4) Epilation   
(5) The Oral Pharynx Focus   
(6) Bleeding   
(7) Fever
 
3. Medical Treatment of Modern Western Medicine at an Early Stage
(1) Burn and External Injury   
(2) Guides on Remedy given by Prof. Tsuzuki. (September 3, 1945)   
1) Severely wounded (leucocyte count less than 1000 )   
2) Slightly wounded ( epilation, oralinfection, diarrhea, leucocyte count over 1,000)   
3) Mildly wounded ( light epilation, diarrhea and gingivitis)   
(3) Report on Medical Treatment for the Injured at Early Stage:   
The acute period (up to the second week)   

4. Folk Remedies
(1) Folk Medicine   
(2) From the local press   
(3) A Relief Report by Prof. Nagai (from August to October 1945)   
(4) Explanation of my Research Data on Folk Remedies   

5. Descriptions of “Folk” Remedy and Medicine
6. Description of Folk Medicines and Cases Treated with
 
(1) Houttuyniae Herba (Juyaku)   
(2) Leaves of Cinnamomum Camphora Herb   
Case of 18 years old young man   
(3) Leaves of the Japanese Persimmon Herb   
(4) Cipangopal Udina Herb   
(5) Salt Water   

7. Fresh Vegetables and Fruits   
8. Moxibustion
 
(1) Symptoms on Oral Cavity, Stomach, and Intestine. (with diarrhea)   
(2) Acute Radiation Disease   

9. Vomiting Method
10. The Concept of the Poison (drugs) and the Actual Treatment
11. Problems of Late Appearing Disorders from Radiation (illustration by examples)
12. Summary
Conclusion

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原子爆弾傷、特に原爆症に対する民間療法「伝承の英智」(改訂)

(改訂)主な改訂:「放射能」を「放射線」「放射性物質」などと改めた (by_ささふね)

〈核戦争防止国際医師会議[IPPNW]広島大会_特別発言・1989年10月〉 
原子爆弾傷、特に原爆症に対する民間療法「伝承の英智」

小川新(広島・医師)

もくじ

序   
1. 死亡率   
2. 一次の放射線・放射性物質による被曝による障害の症状(日米合同調査団の資料による)   
 (1)悪心 嘔吐 食思不振   
 (2)下痢   
 (3)出血斑ないし点状出血   
 (4)脱毛   
 (5)口腔咽頭病巣   
 (6)出血   
 (7)発熱   
3. 早期西洋医学的治療   
 (1)熱傷、外傷   
 (2)都築博士治療指針(昭和20年9月3日)   
 (3)早期治療報告(直後から二週間)   
4. 民間療法   
 (1)民間薬とは   
 (2)都築博士を囲む座談会(昭和20年9月11日)   
 (3)永井博士救護報告   
 (4)私の資料内容   
5. 被爆民間療法の種類及び民間薬について   
6. 民間薬の種類と症例   
 (1)ドクダミ(重薬)   
 (2)楠の木の葉   
 (3)柿の葉   
 (4)田螺(タニシ)   
 (5)塩水   
7. 生野菜及び果物について   
 (1)被爆医師の言葉   
 (2)被爆薬剤師の言葉   
8. 灸法   
9. 吐法について   
10. 毒という概念と治癒の実際、吉益束洞のこと   
11. 後障害の問題   
12. 総括   
結語   
〈文献〉 

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[広告]月刊誌「ナショナルジオグラフィック日本版」

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1945年昭和20年8月6日、広島において人が人を殺害する原子の核分裂エネルギーによる爆発物の最初の経験をしたが、その苦しみ、悲しみ、嘆きは真に筆舌に尽くし難く人類の一大悲劇である。・・・

・・・家屋の倒壊は免れたので、多くの市内で被爆した縁者たちが身を寄せていた。被爆直後(初期)は無傷であった彼らも、脱毛、発熱、皮膚出血、発熱、歯齦出血、下血しながら、口の中は壊疸性潰瘍となり、8月下旬から9月初旬にかけて次々と亡くなっていった。いわゆる第二期のもの即ち、被爆後2週目位から発症するもので、死亡するものが非常に多かった。

医薬品としては、ブドウ糖一本でも貴重であり、火傷に用いる油類、リバノール、マーキュロクロームなどの外は、包帯類もない状態だった。赤十字国際委員会駐日主席代表のマルセル・ジュノー博士(Dr. Marcel Junod:1904-1961:スイスの医学者)が来広し、原爆被害の惨状を知ると直ちに連合軍司令部に医薬品の提供を要請したことによって、やっと医療らしいことが出来たのは、9月20日過ぎであった。

それ故、野山の一木一草、薬になるものなら何でもよいという状況であり、医薬品を求める人々の願いはまことに切実であったが、私達医師は為す術もないという状態であった。

・・・このような極悪な医療環境の中で、言い換えれば民間療法というか、伝承の智恵による医法しかないような状況下で行われた治療法であったことを銘記していただきたい。それは殆ど医師とは関わりなく行われたもので、表の医学・医療ではなく、アンダーグランドの医療であったので、医師を中心とした原爆医療に於いては、全く無視されてきた分野である。この隠れた医療の智恵を直接大衆から聞いてみたいと思つつこの三十年が過ぎていった。

・・・次第に何か他の方法で一般大衆から直接体験の情報を得るしか方法がないという思いに至った。しかし年数を経るにつれ生存者は少なくなり、被爆の体験は風化の一途をたどるばかりある。一刻も早く記録に残こさねばと思っていた。

そんな折り、幸いな事に広島の中国新聞社の山内記者が、私のこの思いを理解して下さり新聞報道されることとなった。即日被爆者およびその縁者の方々より体験情報が寄せられ、今回発表の内容となったわけです。

現今でも原子力発電事故などの放射線障害・放射性物質による被曝の障害は、我々の身近にもあり、そして人類が人類の身をもって行った多数の犠牲者の冥福を析るためにも、寄せられた貴重な経験を将来の人類の健康に役立てようと思いこの論文を書いた。

なおこの論文は、核戦争防止国際医師会議[IPPNW]広島大会で講演するため東洋医学の知識に乏しい西洋医学を主体とした欧米の医師達のための啓蒙論文であることをご理解いただきたい。

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小川清介のこと-「老いのくりごと」より “幕末より明治期にかけた変動期に於ける一医師の記録”

(掲載)「広島医学」Vol.32 No.4 、1979年4月

記・小川新

小川清介のこと
清介「老いのくりごと」より
“幕末より明治期にかけた変動期に於ける一医師の記録”

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略伝

天保9年(1838年)4月8日、佐伯郡草津村(現在広島市草津)に出生。明治37年(1904年)8月4日、同所で卒。67歳。

生立

後に紹介する小川清介の「老いのくり言」によれば「予カ兄弟、長兄俊太郎早世。次ハ女子阿貞、官医小川元調、老後松雲ニ嫁シ玉ヒ、次ハ男子幼名慶次郎、後有慶又有圭又朴二(または敬次:筆者注)、俳号風也、西家ヲ相続シ玉ヒ、次モ男子達三郎、出テ儒ヲ取テ備前藩ニ仕ヘ、目下西毅一其相続者ナリ。次モ男子勝四郎早世。次ハ女子阿節早世。次ハ男子幼名謙吾、即チ予ナリ、出テ分家ノ小川道仙翁ノ嗣トナル」ということであるから、西甫安(八世道朴)の五男である。 (西達三郎は後に後村と称す)

24歳の時、望まれて広島藩医官小川道仙の後嗣となり、名を小川道甫と改め幕末の変動期に上野、会津、奥州等に従軍したが、廃藩置県後、小川姓のまま草津西家に帰り、次兄西有圭の没(明治12年1月10日)後も草津、高須、古田、庚午、井口、阿瀬波等、広範囲の診療にあたる。

和漢の書を広く渉猟して博学多才、和歌俳句を善くし、また医療に精わしければ大いに世に用いられる。その人となり仁慈剛直、人を医するにあたって薬価を徴することなく、貧者には米麦故衣を与え、或いは金銭をひそかに恵むなど、ひたすら累世の行為にならう。

その陰徳は世の尊敬を受け、明治27年3月9日、銀婚式の佳辰を記念して、村内の有志によって、西氏功徳碑が建設せられ、鷺森杜の境内にて挙式せられたという。(下の写真:浅野長勲侯題辞/現在広島市西区草津本町/撮影2004年)

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清介翁の筆になるものは、当時の診療録及び若き時代から没年まで、折にふれて詠み残した歌集「桃乃屋集」、更に明治維新からすでに三十数年の歳月を経て、ようやく人の記憶から往時の出来事が薄れつつあった明治33年春、この老医師が幕末明治期の激動にゆらぐ日本の中で、自ら体験してきた半世紀を振り返って、その思い出を記録した「老いのくり言」5巻がある。その一部、第1巻と第3巻は、1976年1月、学習研究社「日本都市生活史料集成四、城下町篇二」に収録されている。この「老いのくり言」のうち、医家小川清介としての身近なものみを抜粋して紹介し、後世医学史の資料としたい。

注)西毅一(にし きいち)=天保14年生。岡山藩家老池田隼人の家臣霜山徳右衛門 の長男。字は 伯毅、幼名久之助、号薇山。父に従い大坂に出、篠崎訥堂・後藤松陰に学ぶ。帰郷して森田節斎 の門人西後村の学僕となる。後村の養嗣子となり西姓を称した。歿後は森田節斎の学僕となる。  明治3年上海に渡り英語を習得して帰朝。岡山県惨事・東京上等裁判所判事などを歴任。 明治12年再び清国に渡り文学研究に励んだが、まもなく病気にかかり帰国。閑谷学校 (しずたにがっこう)の校長や、同校の育英に尽力。士族授産のため「微力社」を設立経営するなどもした。明治37年歿。 (平成6年山陽新聞社刊「岡山県歴史人物事典」より)

(筆者注:西後村=西達三郎。出て備前藩池田隼人氏に仕え、閑谷学校にも関係し、岡山藩周旋方として関西方面で活動中に病して皈郷のちに広島草津の生家西家にて卒、1863年文久3年6月13日34歳、無子。養子西毅一)

小川清介「老いのくりごと」より

 

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1. 勉学のこと

○予カ幼少ヨリノ師ハ、寺小屋ハ大野屋十三郎(西楽寺ノ前)、西楽寺ノ隠居(上町)ハ読書ノ師ナリ、*広島ニテハ山口大助(堺町古義流)、堀小一郎(猿楽寺朱子流)、備前金川ノ難波立愿、大阪ノ緒方洪庵、伊予ノ大洲ノ鎌田玄台、江戸戸塚西甫、長州萩ノ青木周弼、大阪小野元民、備前岡山ノ長瀬元蔵(時衛)等ノ諸先生及ヒ大阪病院ノ入学等ナリ、其ノ間ニ廿四歳ノ四月、小川氏ヲ相続ス。(頭注*広島の儒家ヘ通学セシハ十六歳ノ頃ヨリ十八ノ頃迄、高橋文良翁ノ方ニ居リシ間ノコトナリ)
【 筆者注:長瀬元蔵(元藏)は緒方洪庵の門人なり。高橋文良翁は清介の大叔父】

○安政二年、長州萩ノ青木周弼翁ノ塾ニ在学中、其ノ冬宮市ノ価人贋金ノ罪ニテ萩ノ刑場ニテ磔ニ処ラレタリ。此者ハ如何ナル故ニヤ臍帯ノ瘢痕ヲ認メヌ、予ハ 因ヨリ一般ノ人モ不審シアヒヌ。

○予カ緒方洪庵先生ノ塾ニ入シ頃、塾頭ハ松下元芳トテ久留米ノ人ナリシカ、此人去テ福澤諭吉之ニ交リヌ。塾中三区ニ分レテ、大部屋トテ四十畳、又自然窟トテ十畳敷、之ハ四級以下八級迄ノ生徒ノ居所。別ニ清所ト言テ三級以上ノ人ノ居所ニテ十畳余アり。一人ニ一畳ノ当ニ居所ヲ設ヶ居シカトモ、清所ノミハ人員少クシテ畳数多ク、払除モ行届キナ随テ清潔ノ方ナリキ。 余ノ二区ハ月ノ朔日ニ一度払除スルノミナリシカハ随テ穢汚ナリキ。加之其払除セシ塵壊ヲハ行灯及ヒ両掛等ノ荷物ヲ積置押込様ノ所へ払込置シ事ナレハ、夏日ハ蟲類モ発生セリ。今日ノ生徒ノ身ノ上ニ比較セハ霄壌ノ違ヒアリ。月俸ハ其頃ノ弐朱余リニテ事タリヌ。【筆者注:小川清介は兄西敬次(有圭)のあと8年後適々塾に入門している】

○文久三年、予浪花ニ遊学、其三月父君新宅叔父君達吉野ノ花ヲ看テ夫ヨリ京都ニ上リテ将軍家ノ御上洛ヲ拝マントノ御心ニテ打連テ上リ来マセリ、能折ナリ迚モ御供シテ出立ヌ、其頃桜ノ宮ノ花ハ既ニ散タレハ彼地モ如何アラントアヤブミナガラ行々テ河内国早振ノ里ニ宿リシニ此地ハ尚寒気強クシテ梅花夕ニ開キ得ヌナレハ、吉野ハ未タ早カルベシ抔里人ハ語レリ、扨テ楠家ノ城趾及ヒ墳墓等尋ネ巡リテ何々越(坂名ヲ忘ル)ヲシテ吉野ニ到リシニ好天気ノ満開ニテ雪トモ月トモ譬へ難キ気色ナリキ、次ハ長谷奈良アタリハ花僅ニ残リ、京都ニテハ亦散花ノ後ナリケリ。

○維新前将軍始メテ御上洛ノ春、予テ予ハ大阪ニ在学中ナリシ所、家君及ヒ新宅ノ叔父、松屋ノ伯父等御上阪アリ。其ノ御供シテ河内ノ金剛山ノ中腹楠氏ノ古城趾、夫ヨリ峠ヲ越テ大和国ニ入吉野山ノ花ヲ一覧シテ京師ニ入シコトアリキ。其ノ途中紀州藩ノ人ノ由ニテ下婢様ノ者小児ヲ背負、或ハ抱キナ通行セシヲ見シニ、其下婢執レモ一口ノ短刀ヲ帯ノ間ニ挿居レリ。広島ニテハ右ノ如キ風俗ハナカリシコト覚ユ。

○予少年時ヨリ其ノ頃相応ノ解剖 生理 薬性 治療等ノ諸書ヲ読テ、如斯病症ニハ如新斯剤ヲ用テ、治療スヘキ者ナリトハ凡ソハ意得居タリシモ、扨、実地患者ヲ診スルニ当リテハ、其何病ナリヤヲ判決スルコト難ク、随テ之ヲ療スル法方モ之ヲ案出スルコト能サリシカ、何歳ノ頃ナリシカ一朝豁然トシテ悟ル所アル者ノ如ク、従前ノ迷雲晴渡リテ諸病ノ診断ニ当リテ是ハ何病ナリ、是ハ病名ヲ下シ難キ者ナリ抔などト判然ト心中ニ判決ヲ下ス事ヲ得シ様ニ成シハ、我ナカラ不思議ノ事ニテ斯様ナル辺カ悟リラ開キシト言物ノ如キカト、其愉快ナル事ハ今ニ忘却セス。

○明治七年三月ニ大阪府ノ病院ニ入学シテ其十一月ニ帰宅ス。 (大阪府ノ病院=明治6年開設大阪府病院)

2. 相続のこと

○文久元年、予カ小川家ノ相続者トナリシハ二十四歳ノ四月ニテ、前年ノ冬萩ノ青木周弼先生ノ許ヨリ皈リテ居リシ頃ノコトナリ。【文久元年1861年】
四月二十五日ハ兄公ノ命ニテ予テ頼ミ置シ薬籠ヲ視来ルヘシトノコトニテ、夕飯ノ後出広シ其序ニ本家小川ヘ立寄シニ(主人元調翁ハ江戸在勤ナリ)姉君ノ仰ラレケルハ、何ソ異リシコトハナカリシヤ、否何モ承リ不申、八田新七ハ行タリヤ、弟カ家ヲ出ル前ヨリ来リテ家君ノ所ニテ何カ噺シ居マシタ、其事ナリ実ハ新宅ノ道仙サン昨夜急病ニテ死亡セラレシニ付、親類知己ノ人打寄テ相続人ノ相談アリシニ、承知ノ如ク内ニハ男子ナケレハ他家ヨリ貰ヒ受ヘキ筈ナレトモ、長キ短カシニテ一定セス。其時八田新七(道仙翁ノ兄弟ノ子ナリ)是ヨリ草津へ行テ西ノ弟ヲ貰ヒ来ルヘシ如何アラント言シニ、誰モ別ニ異議申立ル人モナク決セシカハ総テノコトヲ同人ニ委任シテ開散セリ。然レハ家君ヨリイカ様ノ御返答アリシカ心許ナク早ク皈ヘシト仰セラレシ故直ニ皈宅セリ(素ヨリ夜中ナリ)。【筆者注:清介の姉貞は小川元調の後妻/八田新七:もと小田新七は明治になり八田と姓を改める】
 家君御前ニ召レテ仰セラレケルハ今日八田新七来リ、新宅小川の相続者ニソナタヲ貰ヒ受タキ所望ナリ。猶種々噺ノ末何分本人不在ナレハ御速答成カタシト申シシニ、貴老ノ御心中ハ如何ニト問シ故、愚老カ身ニハ兄ノ子モ有之コト故、達テ否ミ申程ノコトモコレナシト答ヘシニ、左様ナラハ事動カス可モアス本人不在タリトモ親ノ命ニ背ク子ハ有ヘクモアラス、是ヨリ引返シ親類中へ披露シテ安堵セシムヘク何事モ明夜運ヒ申ヘクトテ、一言半句ヲモ言シメス自身大呑込ニテ皈リ去リヌ。今更否マン様ハナケレトソナタノ意向イカニヤト仰セラレケリ。
 如斯相成候上ハ身ニ於テ申上ン条件モ之ナク、家君ノ思召ニ随ヒ申上ヘシト御答申上是ニテ事一決シテ寝ニ就ヌ。二十六日ノ午後出広、本家へ行テ入家ノ準備ヲナシ、姉君ノ御心添ヲモ承リ、夜ニ入テ近藤為之助ニ誘ハレテ入家皆々ニ挨拶モシ、棺ニ向ヒテ拝ヲナシ猶一碗ノ茶漬ヲ喫シ、是ヨリ五十日間ノ喪ニ居レリ。
 此日ノ朝、病気大切ニ付養子願等ノコトニ就、見分トシテ御目附其他ノ御役人出張アリシトキ、門生斉藤宏達(山県郡ノ人此時ノ取計ヒ事ハ総テ以前ニ取繕ヒ置シコトナリト言)深ク蓐中ニ潜ミ、病者ニ扮シテ其場ニテ何カ少シク書シタリ。是ニテ表面ハ事故ナク相済ミ、此日ノ内ニ養子願ヲモ出シ、死去発表ノ知セヲモ出シクリトノコト。二十七日禅昌寺へ葬ル。【筆者注:この相続法は非常手段であり「末期養子」という】
 此死亡ノ原因トス可ハ温徳公(御三ノ丸御住居)御隠居後モ御子彼是オハシマシシカトモ、孰レモ御成長ナシ、此度ハ小児科ナラネトモ道仙へ申付ヘシトノ御事ニテ、御妊娠中彼是ト注意ヲ申上御出生後モ御申分ナク御肥立遊サレ御嬉ヒ一方ナラス。次ノ年御初幟ト申コトニテ四月二十四日召出サレ、此度ノ若殿ノ御健康ニ御成長遊サルルハ道仙カ尽力ニ依所ナレハ、今日ハ充分ニ御酒頂戴スヘシト勧メニ勧メラレテ夜ニ入テ皈宅シ、間モナク脳出血ニテ其儘醒覚セサリシナリ。此若殿ヲハ鍋槌殿ト申奉リシナリ。【筆者注:温徳公=広島藩九代藩主浅野斉粛。斉粛の子十代藩主浅野慶熾は1858年没】

○予カ家督相続ハ六月(今ノ七月)ノ廿日頃ナリシ、五十日ノ忌中ヲ畢テ忌明ノ廻礼終リシ頃、御用人連名(養父ノ支配頭ナリ)ニテ御用之儀候条、明後日四ツ時登城可有之候トノ御用状ニ接シ、初メテノ登城万事不知案内ニテ、同道ノ案内ヲハ山中仙庵(東白島在)ニ依頼シテ、明朝両人登城シテ申渡シノ間ノ工合、其時ノ作法等仙庵ヨリ伝習セラレテ待居シ程ニ、四ツ半時(今ノ十一時)立花ノ間ニテ御用人ヨリ家業勤務下賜ノ家禄等ノ奉書ヲ渡サレテ拝受シ、下城カケ御家老・御中老・御年寄・御用人ノ宅へ御受ケ御礼ノ廻勤ヲ畢テ帰宅シテ見レハ、近親懇意者等打集テ予カ帰宅ヲ相待居、一同嬉ヒヲ述祝盃ヲ傾ケヌ。無程大御小姓頭ヨリ御自分儀、自今拙者御支配ニ候条可被得其意候。已上トノ書状到来、是ヨリ大御小姓頭ノ支配ニテ儒医組、即チ外様ト成シナリ。御家老ノ小人夜中使スル時ハ丈ケ弐尺計ニシテ其ノ家ノ印ヲ附シ大釣灯ヲ提グ、是ニテ御家老ノ人タルヲ認ルニ足レリ。

3. 医制のこと

○支配頭ハ御近習向テ勤ル医師ハ御用人ナリ(御側医師及ヒ御側医師並ハ御近習向ナリ。此内ヨリ方々様ノ御執匕、又方々様ノ御付ヲ命セラレテ毎朝交番ニテ拝診ニ出ルナリ)。外様医師ノ時ハ大御小姓頭ヲ支配頭トス(此輩ハ毎日ノ勤務ナシ)。啻石州大森出張ヲ年番ニテ命セラレテ其用意ヲナシ居ル位(是ハ異国船防禦ノ手筈御引請ナレハナリ)、其他ハ御野合ノ御供位ノ事ナリ(御鷹狩・御山狩等ヲ言)。然ルニ元治・慶応間ハ時勢ノ変遷、運政御編正ニ従ヒ、講武所へ日々交番ニテ出張シ、或ハ山野調練ノ時交番ニテ随行スル等ノコト始リヌ。

○往昔ノ医師ハ主人持ト成コトヲ嫌ヒシ者多カリシカハ、上ニ此者ヲ召抱ヘラレタシト思召シテモ、若拒絶セラレテハトノ注意ヨリ、其思召アルトキハ先ツ内々ニテ其者ニ其意ヲ通スレバ、其者モ熟考ノ上以前ノ社中へ、此度斯々ノ次等ニ付御辞退申上難キ間奉公人トナル間、其旨御知被下タシトノ趣旨ヲ述テ一応内々ニテ奉答申上シ者ノ由、然ラサレハ社中ヨリ拒絶セラルルノ不面目ヲ被ルコトアレハナリ。
 然ル後表面被召出シ者ニテ、此方ヨリ手ヲ廻シテ被抱シコトハナシ。故に大島順庵ト言シ人ハ千石ニアラサレハ抱ヘラレシト申シシニ、医師ニハ千石ノ先例ナケレハ禄ハ三百ト定メ、其他ノ諸物成ニテ一ケ年千石ノ取分ニ致スヘシトノコトニ決シテ抱ヘラレントナリ。後世ハ然ラス、此方ヨリ種々ト手ヲ廻シテ抱ラレシ故追々禄高モ減シ、猶下リテハ御医師格ト言テ七人扶持・五人扶持迄ニテモ抱ヘラレシ人モ出来ニケリ。

○御側医師ヲ長年勤続スルトキハ其格ヲ進メラレテ御歩行頭等ノ役格ニ被成、且相等ノ役料ヲ下サレシ者ナリ。

○藩政ノ頃ハ医師ヨリ死亡届ト言コトハ無リシ故、仮令近辺ノ病人ニテモ、何病ニテ死亡シタリシカ知ラサルコトアリ、サレハ其死亡ニ於テ一切関係ハ無リシナリ。併シ変死ハ検視ヲ受ル例アレハ一様ニハアラスト知ヘシ。

○広島藩ノ御領ハ一般ニ堕胎ハ厳禁ナリシ故、随テ人口著シク夥多ナリシ理ナリ。故ニ今日ニモ安芸国ハ八十余万ノ人口ヲ有シテ他ノ大国ヲモ凌駕セリ。他国ニ在テハ今日ノ事情ハ知サレトモ、以前ハ此事甚シク行ハレテ、婦女ノ人ノ面前ニテ堕胎ノコトヲ書コトヲ少シモ慚トセザリシ風習アリシナリ。勿論我国ニテモ皆無ト言ニハアラザリシカトモ大ニ外聞ヲ慚懼シシ者ナリ。

○公告コトノ流行スル時節トハイヘ、医師社会ニ迄波及シテ此度何所へ開業ストカ、或ハ何々科ヲ専修セリトカ等新紙雑誌中ニアラサルコトナシ。殊ニ甚シキハ印刷物ヲ配付スル等ノ手段ニ出ル人アリ。是等ハ商業的同様所為ニシテ其意志ノ鄙劣ナル、其品格ノ堕落セル、実ニ慨歎ノ外ナキナリ。

○往時ノ羽織ハ丈短カキ者ニテ、大約臀部ノ隠ルル許リノ者ニテ、勿論木綿ナリ。染ハ概シテ小紋ナリキ。黒ノ紋附ハ藩中ノ人若クハ医師等制外者ノ着スル所トス「医者ノ羽織ハ長ケレト逢タ其夜ノ短カサヨ」ト言俗謡ニ依テモ其長カリシヲ知ルニ足トモ、夫スラ膝頭迄ノ者ナリシカ、維新前ヨリ漸ク長ヲ加ヘテ目下ノ裾蹶ルカ如キ迄ニ至リヌ。

4. 疫病のこと

○予ハ四歳ノ時痘瘡ニ罹リシ由ナレハ何事ヲモ不弁トモ、ピンピン馬・不倒翁(オキアガリコブシ)・猩々、食物ニモ赤飯・赤メバル等総テ赤色ノ物ヲ以テ枕頭ニ充サレシナリ。

○予カ廿三、四歳ノ頃ナリト覚ユ。犬ノ病ヒ流行シ其状ヲ概スレハ、神思沉鬱シ吼声ヲ出サス、涙液アリテ食思ナク歩行蹣跚遂ニ仆イトレテ死ス。依テ一時ニ犬種断絶スルカト思フ程多ク斃レタリキ。其後鶏類ノ斃死多カリシコトモアリキ。

○四十年前頃迄ハ時々天然痘ノ大流行アリテ(種痘法モアリシカト信スル人少クシテ種痘済ノ児モノ亦少カリキ)夥多ノ児童ヲ奪ヒ去ニキ、其中或年井口村ニテ猖獗ヲ極メ(草津古江両村ハ種痘済ノ児少カラサリシ故甚シカラサリキ)児童ノ十中八九ハ鬼籍ニ登リヌ。然ル所以ハ彼地ハ真宗甚シクシテ如斬新業ヲハ自力所為ナリトシテ、悪忌ミミテ之ヲ敢ンゼザリシ故ナリ。之ニ就テハ僧侶罪ナシトスヘカラス特ニ甚シキハ高度ノ発熱中紫斑ヲ発シ発症ヲ見スシテ死セシ者往々アリシ景況ナレハ、其悪性ナルコトヲモ想像スヘシ。就裡稀ニ種痘済ノ児アリテ病児ト同シク起臥シテ安然タリシヲ見テ、愚夫愚婦モ始メテ其効力ノ空シカラザルコトヲ感シテ、爾来自力説ノ迷信霧消シタリ。

○井口村ノ西ノ方ニ神社アリテ‘カッポウサン’ト称シテ、天然痘ノ流行時ハ広島辺ヨリモ参詣人少ナカラサリキ、扨此‘カッポウ’トハイカナル事カ弁ヘサリシカ、広島ノ中島ノ裏ノ町ニ‘トウカサン’ト称スル所ノ神社アリテ、是稲荷ノ音読ナレハ此カッポウモ亦活庖ノ音読ナルヘシト考へ得タリ、多分愚考ニ違ハサルヘシ。

○明治十二年ノ夏ヨリ秋ニ渡リテ虎列刺病大流行シテ此里ニテモ六十名計リノ死亡者ヲ出シヌ。

○明治十八年四月ヨリ起リテ麻疹大流行。

○明治十九年夏虎列刺病発生シテ此里モ五月ヨリ多数ノ病者ヲ出シヌ。

○明治二十四年、去年ノ五、六月頃流行性感冒発起シテ今年二月ニ至モ其勢ヒヲ減セサルノミナラス老人ハ多ク不起ナリ。

○明治二十六年ノ七月ノ初旬赤痢大流行、九月ニ至リテ、漸ク其勢ヒヲ滅ス。

○明治二十八年六月頃ヨリ虎列刺病発生シ、七月ニ至リテハ此里モ漏レヌコトトナリヌ。コハ征清人ノ持帰リシ物ナリ。

5. 診療のこと

○平常ノ常伺ハ朝出勤シテ殿様ナレバ御小姓ノ詰所ニ行テ伺、出勤ノ旨申述レハ、御小姓ノ案内ニテ拝診スルナリ。御婦人方ナレバ御広式御小姓組ノ席ニ至リテ、其旨申述レハ御小姓組ノ案内ニテ拝診ス。御両方様共ニ平常御次ノ間ノ敷居迄歩シテ進ミ、其所ニ座シテ一拝シテ夫ヨリ御側ヘハ膝行ス(スベリ込ナリ)、凡ソ三膝行位ノ物ナリ。拝診ハ御男子ハ左手ノ御脈ヨリ始メ御女子ハ右手ノ御脈ヲ先トス。次ニ御舌上ヲ伺ヒ此二診ノミニテ済ナリ。夫ヨリ又御次ノ敷居迄退却膝行シ一拝シテ立テ退キ、御小姓組ノ席へ帰リテ案内セシ御小姓組ニ向ヒテ「御ヨロシウ入セラレマス」(異状ナキヲ言ナリ)ト申述テ退出スルナリ。老女ノ詞ニテハ御病室ニ入セラルルヲ「御帳ニ入セラレマス」ト言、御食餌ノコトヲ「御台ヲ召上ラレマス」ト様ニイヘリ。

○予カ廿二歳、大州ノ鎌田氏ヨリ帰省中△▽□□助・■■衛ト言兄弟ノ者、山代ノ本郷ヨリ来住セシ者アリシカ、□□助ノ妻ハ四十余歳ニテ乳岩(癌)ニ罹レリ、其頃迄ハ広島ノ外科ニ如斯手術ヲ行フ者ナシ、依テ之ヲ切除セン事ヲ請テ不止、予ヤ其術ヲ目撃セシコトハアレトモ自ラ行ヒシ事ハ無リシカトモ大胆ニモ之ヲ諾シ、例ヒ依テ手術中下側(測)ノ変アリトモ苦情ナシトノ一札ヲ出サシメ、弟■■衛カ宅ノ少シク広キニ依テ之へ移シ、其頃ノ代診生金子元郁(兄ハ浅野豊後ノ譜代ノ医師ニシテ金子元達、後改敬助今三十三年五月六十八歳ニテ没ス)ノ一人ヲ介手トナシ、例ノ麻沸湯ヲ服セシメ感覚ヲ失フラ待テ手術ヲ施シシニ、思ヒシヨリハ容易ニ術ヲ了タリ。其後傍発症モナク、再発ノ徴モナクシテ漸次治癒セリ、斯テ一年計ノ後此夫婦ハ復ヒ本郷へ帰シカ、折々ノ伝言変状ナキ事ヲ報セリ。 【筆者注:大須ノ鎌田氏=鎌田玄台】

 然ルニ今ヨリ六、七年前一日一老婦アリテ予ニ面センコトヲ請トノ事ニ出テ見、之ハ六十有余ノ白髪ノ老媼ニシテ其誰人タルコトヲ認メス、渠低頭平身シテ曰ク、御忘レデゴザイマセウガ私ハ□□助カ妻デゴザイマス、御陰ニテ今日迄息災ニ暮シテ居リマス、此度久シ振ニ此地へ参リマシタデ御目ニ掛リタク御礼モ申上タクト存ジマシテ上リマシタト言テ、少シノ土宜ヲ出シタリ。イカニモ能々見レハ若キ時ノ面影ノ在セルモノ有テ、互ニ無事ヲ視シテ別レシカ、其後如何セシヤ、此面会ノトキ□□助ハ既ニ無人ノ数ナリト語リキ。此手術力予ノ初メテノ終ニテ他ニ大手術ヲ行ヒシ事ナシ。痔漏ヲ切断セシ位ノコトハ度々アリシカ、弟ノ■■衛ハ現ニ上町ニ在テ健在ナル住田七兵衛ニシテ活計モ追年饒ニ成シ様ナリ。天郁ハ此事アリシヨリ後多年ナラスシテ病没セシ由、遥後ニ伝聞セリ。

○明治二年ノ正月ノ初メ奥羽戦争ヨリ帰リテ程モナク、志和ノ奥屋村ナル神機隊ノ屯集へ在勤ヲ命セラレテヨリ同三年ノ八月迄在シニ、病ル所アリテ帰宅ノ命ヲ被リヌ。

○或持家法ノアルマンス膏ヲ煎煉スルニ、有合セノ竹ノ一条ヲ以テ之ヲ混合セシニ、幾度烹替テモ粘着力少ク如何トモスルコト能サリシニ、後木条ヲ以テ之ヲマセシニ常ノ如ク煉熟シ得タリ。然レハ煉膏ニハ竹条ハ粘カヲ奪フノ害アルモノニヤト心得タリ。不思議ノコトナリト言ヘシ。後年コソ何トモ思ハネ此膏薬ハ西家祖先ヨリ相伝セシ者ニテ、所謂秘伝ノ法ナリ。故ニ之ヲ攪拌製煉スルニモ丁寧ニ取扱ハレシトノコトナリ。

○コレノ里ナル □□□□妹ミヨハ、久シク癌煩イテ明冶二十一年二月の一日、遂ニ空シウナリオハシヌ。ソカ言置ケルコトニヨリテ二日ノ日、教専寺庭ニテ局処解剖ヲ行イヌ。医学士遠藤洋、同島田寛吾、中学校ノ教諭森集其他同業諸子十余名参会せり。鳴呼此ミヨ女ノ程コヨナイ覚エテ墓碑営ミ建テ朽ヌ名ノミヲ残サマホシサニ表ノ文字ハ軍医長長瀬時衡氏ニ請テモノシクリ。

 “もちゐへきかたのなき身を世の為と もちゐしめたる身そめてたかる”佐伯郡草津村弐拾邸
   平民商 □□□□ 妹ミヨ
         当三十年八ケ月
右之者病気之処二月二日午後一時死去候ニ付テ
ハ草津村教専寺ニ於テ三日午後二時ヨリ局処解
剖施行仕度依テ本人素願書相添差出申候門至急
御許可被成下度此段奉願候也
           佐伯郡草津村九十五番邸
         明治二十一年二月三日 主任医師小川清介
廿日市警察署長
 警部三宅重義殿
廿警第五十四号
書面願之趣聞届候事
    明治二十一年二月三日廿日市警察署長
           警部 三宅重義 印

6. その他

○友之助様たよ姫ハ孰レモ広島ニテノ御妾腹ナレハ、一度ハ江戸へ御参府ノ上公儀へ御届ニナリ表向ノ御家族トナリ玉フ例ニ任セ、御参府ノ節御両人御一緒ナリシ由。其御供ニハ祖父元精翁被仰付ラレタリトソ。所々ノ御宿札ハ安井某家内トアリシ由。浅野トモ松平トモ称ヘラレサリシ故ナルヘシ。此安井氏ハ御先祖弾正少弼長政公ノ御実家ナレハナルヘシ(饒津神ナリ)。其後たよ姫様ハ御縁談相整ヒ、不日御引越可被成ノ所、天然痘ニ罹リ玉ヒ遂ニ御逝去被遊シ由。御逝去ノ後何日ニヤ御生時ノ如ク白粉及ヒ紅ニテ装ヒ、御衣服モ亦御盛装ニテ是迄御附申セシ人々ハ不残御目見エシタリトソ。予カ家ニ老女ヨリ貰ヒシたよ姫様ノ御文ノ下書アリ。修理太夫様ニテ御伯母ノ宛ナリ。此修理太夫ト有ハ日向ノ飫肥ニテ伊藤候ナリト言。

■ 参考文献

  • 小川清介著:「老のくりごと」全5冊 小川氏蔵書
  • 小川清介著:「桃乃屋集」 小川氏蔵書
  • 小川清介著:「老のくりごと」第1、第3:1978年学習研究社、「日本都市生活史料集成第四卷 城下町篇二」p174〜237、に収録

謹誌:小川新

(掲載)「広島医学」Vol.32 No.4 、197

参考資料

・小川清介に関する文献
   広島県医人伝(廣島縣醫人傳)」第1集 頁30
・西有圭(有慶・敬次・朴二)に関する文献
   江川義雄著「広島県医人伝(廣島縣醫人傳)」第2集 頁30

江川義雄著「広島県医人伝(廣島縣醫人傳)」(広島県医師会HP「廣島縣醫人傳」 PDF)

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薬と毒/宮沢賢治「よく利く薬とえらい薬」

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“薬らずして、病気らずして、らずして如何なる医療があるのだろうか ”

薬と毒

小川新(Ogawa Arata)

宮沢賢治「よく利く薬とえらい薬」
良薬と毒薬(ばらの実のはなし)によせて

宮沢賢治の短編集の中の「よく利く薬とえらい薬」という童話を読みました。

親孝行の清夫少年が、病気の母親の薬を求めて、ばらの実を集めるために毎日森へ行きました。その時にはつぐみやふくろうなど、みんな清夫がばらの実を持って帰るのを応援するような言葉を少年にかけました。

「今日もお薬をおとりですか。お母さんはどうですか。ばらの実はどうですか。ばらの実はまだありますか」

と、皆それぞれに声をかけます。

ある日、清夫が一所懸命、実を集めるのですが疲れてしまい、ぼんやりと立ちながら、一粒のばらの実を唇にあてました。この一粒の実が、不可思議な薬力を持っていたのです。身体の中の全てを洗ったようになり、眼ははっきりし、耳もよく聞こえ、いろいろな匂いまで実に一々手にとるようでした。手に持っていた一粒のばらの実を見たら、それは雨の雫のように綺麗に光って透き通っているのです。清夫は飛び上がって喜んで、風のようにうちに帰り、母親に飲ませました。母親は、今までの病気もどこへやら、急に身体がピンとなって喜んで起き上がりました。

一方、町には非常に欲深く、偽金つかいを生業とする大三という者がおり、最近体の調子が良くなく、そのばらの話を聴くと、早速探しにいきました。しかしいくら探しても見付けることは出来ません。それで、自分の科学的合成技術を利用して、似通った類似品を合成したのです。それは透き通ったばらの実のようでした。大三は喜んでこれを飲みましたが実はひどい毒薬で、それを飲んだ大三は死んでしまいました。

学識のある人の中には、人の力でも作り出せると思う人がいるようです。浅識盲目の人は、それによくだまされてしまいますが、この場合は、本人自身が猛毒とは知らずに飲んで死んでゆくのです。薬と思って、毒とは知らずに服んだからです。

一般の人達の中には、毒と薬との区別がつかない人がいます。特にここ二、三十年間位、厚生省と製薬メーカーとやメーカー御用学者などが一緒になって、薬事審議会を運営し、妄りに薬が製造販売されいる。医者は自信をもって投与し、患者は不安をもたずにのんでいる。長期使用による薬毒のことについては、甚だ無関心であることには驚くばかりです。私からみれば、薬物の長期使用が、巨大な人体実験場のように思えてなりません。

いまの世の中、偽者の偉い人、偉そうな人が多いのです。私の言う偉そうな人というのは、無智の人にとっては偉く見える人で、ほんとうに智慧のある人からみれば間違いだらけを世に振撒いているのであります。

この世の名声と、この世の富を求めて、知識を集めている人です。世に言う学識経験者も、骨格のしっかりした見識からすれば、実に馬鹿げたことが多いものです。

独りよがりの妄想の中に安住してはいないか。真実の心を失うことは、どんなに大きな罪つくるか、いつも私たちは考えていなければなりません。

正しい心を持ち続けるためには、どうしたら良いかを考えることです。

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明治20年の「薬価治療代金表」

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明治20年の「薬価治療代金表」

明治期の広島地方の薬価は、薬1日分米1升といわれていた。

明治期の米価と薬価

・明治 4年:米1升 6銭、薬1日分5銭
・明治12年:米1升 7銭、薬1日分5銭
・明治30年:米1升12銭、薬1日分8銭

「薬価規則」(明治20年 佐伯医会) [小川医学図書所蔵]

Tiryoudaikin_m_22_00

水薬      1日分  6銭
・丸薬     1日分  6銭
・散薬     1日分  6銭
・煎薬     1日分  6銭
・兼剤     1日分  3銭
・頓服薬   1回分  6銭
・振薬    1日分  2銭
・含薬    1日分  3銭
・皮下注射 1回分  5銭
・灌腸術   1回分 10銭
・膏薬     1具に付き  1銭〜3銭
・点眼薬   1瓶に付き  3銭〜5銭
・エレキ術  1回分  6銭
・蒸術     1剤分  4銭
・巴布剤   1剤分  4銭
・洗滌水   1剤分  4銭
・塗擦剤   1瓶剤  3銭〜6銭
・耳洗     1回   2銭
・散布薬   1回分  1銭
・蒸気吸入 1回分 10銭
・坐薬     1固に付き  2銭
・繃帯     1軸に付き  5銭〜15銭
・診断書料  30銭〜1円
・手術料   10銭〜3円
・診察料   10銭〜30銭 (但し服薬するものは此の限りに非ず)
・往診料   1里毎に  50銭を要す

 右薬価徴収期限は年6回とす
  2月、4月、6月、8月、10月、12月

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気と肺癌

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気と肺癌  (by小川新)

喫煙が肺癌の原因であるとアメリカ国立衛生研究所が主張しはじめのは約四十年前だが、その主張に私は疑問を持っていた。その頃の小生は、肺癌の手術を年間十数例実施しており、手術をしながら何が癌の原因なのかを考えていた。

ある時、二人の肺癌患者を同一人物と勘違いした。
手術後一週と二週の肺癌患者が二人、別々の個室に入院していました。
一人の肺癌患者を診察しもう一人の患者の部屋入るや否や、「この患者はもう済んだ」と思ってその部屋を出てしまった。

この勘違いは如何なることであろうかと思い巡らした。
おそらく私は、この二人の肺癌患者に共通の雰囲気を感じたに違いないのであろう。

それは何であろうか。
肺癌の「気」とは何であろうか。

付き添いの奥さんにこう質問をしてみた。
「ふだん、家の中で嬉しいことがあった時にご主人は一緒にお喜びになりますか」と。すると「主人は一緒に喜んでくれないのです」という答えだった。

喜べない無意識の憂鬱の原因は何であろうか。
先天性気質ともいうべき深い鬱の原因を観察してみると、そこには供養を待っている先祖の霊があるような気がしてならない。
ここに肺癌の原因としての気滞(気の滞り)があるという事になるのです。

心の奥深く潜む鬱の気を晴らすには法華経信仰による「自浄其意(じじょうごい)」する他はないと思える。
最大の良華はお題目修行しかないようです。

近年、癌をはじめとする難病と脳神経系を主とする「心のあり方」が非常に関連深いことが分かってきた。

二十年前、日本で最初に心身医学講座を設立された九州大学の池見酉次郎名誉教授によれば、癌末期患者を追跡調査した結果、五人の完全治療患者を見出し、その患者に共通する精神構造があることに気付いたというのです。
その人たちは「今日生かされていることが有り難い、今日の命に感謝し喜んでいる」というのです。

約二十年前、これを日本で報告すれば新興宗教と間違えられるということがあつたが、この五六年、先生の心身医学が国際的に再評価されてきています。

しかしいまだに多くの医師は、癌治療に手術、放射線治療そして抗がん剤治療という三つの選択肢しかないようであるが、もっと気、こころ(心)のことも知るべきでしょう。

「みのぶ」掲載

 ーbyOgawaArata

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“自浄其意”
自ら其(そ)の意(こころ)を浄くせよ

“諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教”
一切の悪を作すこと莫れ、まさに其の善を奉行すべし、自ずからその志意をめよ、是則ち諸仏の教えなり

この四句の偈は迦葉仏の禁戒の偈です

 ーbyささふね

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