草津村西氏医系のあらまし

(『佐伯郡医療史』原稿)「草津村西氏医系のあらまし」 昭和40年8月[1965]...

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「吉益東洞顕彰碑 」広島大学移転の経緯

「吉益東洞顕彰碑 」広島大学移転の経緯
小川新1995年

 吉益東洞を知らずして曰本漢方は語れないという程の医傑は1701年に広島市銀山町で誕生し、1772年京都市東洞院通で没した。
 卒後二百数十年を経ても、彼を尊崇し、その著作によって古典医学を学習し、難病治療に応用している医師、薬剤師は跡を絶たない。近世から現代に至るまで、日本の東洋西洋の医学医療に大きな功績を残してきた。
 昭和48年11月10日広島県医師会長大内五良氏により、東洞没後二百年を期して、その「人となり」を敬仰して、その顕彰碑を医師会館前庭に建立した。それは「光芒世界を照らし、天下の医を匡す」というイメージを現わした石の芸術家による傑作であった。
 これに啓発されたかの如く、広島漢方研究会をはじめ、全国の漢方臨床家による日本東洋医学会会員への呼びかけがおこり、吉益東洞碑を作ろうという気運が高まった。
 昭和49年7月、大塚敬節先生の筆になる「吉益東洞先生之碑」を東洞の母方の谷氏菩提寺広島市寺町報専坊の門のすぐ側に建立する事となった。
 さて、碑が設置された報専坊という寺は、江戸中期西本願寺との三業惑乱論争に決着をつけた僧・大瀛(だいえい)を出した寺である。この僧は新古義派を主張し、親鸞に帰れといって改革を主張し、本願寺を屈伏せしめた傑僧であった。この僧の顕彰碑と東洞の顕彰碑が並んでいたことは、まさに二人の改革者に相応しい組み合わせであり縁の不思議さを感じた。この寺には外国の医師、特に中国中医師たちにも折にふれて案内したので、彼らにとっては江戸中期から現代に至る日本漢方の伝統的特徴を理解する上で非常に効果があったようだ。
 しかしながら、昨年(平成6年)秋報専坊から、本堂の大改築に伴いまた諸種の事情により境内の一等地を空けて欲しいという申出があった。なぜこのような事になったのかと早速この寺の総代氏と面談したが、高額な金銭的なことが絡んだこととなり会談は暗礁に乗上げた。このような状況で、東洞碑の歴史的文化的意義も理解し得ない人達と話し合いをしてもすれ違うばかりで交渉は纏まらないと思った。この寺の住職様も顕彰碑建立の有力な発起人であっただけに、さらに無念だった。このような状況で移転しなければならないとは、真に東洞先生に失礼であり心苦しい思いであった。
 この移転問題を、大学時代の同窓同級生の産婦人科専門医で、日本医史学会の評議員である江川義雄氏に相談したところ、広島大学学長原田康夫氏(前耳鼻咽喉科教授)の御力を御借りしようとなったわけである。
 早速原田学長私宅を訪問し、これまでの経緯を申し上げ、広島大学医学部に移転のことをお願いしたところ、それならば、広島大学に持って来なさい、今年はちょうど、広大医学部創立五十年になるが、その記念事業の一つとして東洞碑を御引き受けしますという事であった。あまりにもスムーズに話がすすんだので、驚き且つ感謝申し上げた次第であった。
 そこで、安佐区可部町の中川和夫医師に相談し、安佐北区三入の立川雅高園芸師に工事の一切を依頼することになった。広大基礎棟前の場所に適しいデザインで新しい台石を探すこと一か月半後、ようやく相応しい自然石を見つけ出し、本年5月(平成7年)に移転改築出来たわけである。
 顕彰碑台石の銅板に刻む書を原田康夫学長にお願いしたところ、快く引き受けて下さった。
原田先生の雄潭な書「親試実験」は我々をはじめ後につづく医師学徒に何かを語りかけているようだった。

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腹証の歴史と意義

腹証の歴史と意義 一般に言われているように、漢方医学の診断法には望診、問診、問...

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瘀血および瘀血関連の腹証について

瘀血研究 第2回瘀血総合科学研究会(1981年)

瘀血および瘀血関連の腹証について

小川新(OGAWA Arata)

目次
1. はじめに
2. 腹証研究の問題点
 2-1)法則性について
 2-2)毒の存在について
 2-3)腹証における時の問題
3. 私の腹証研究法
4. 瘀血および上腹部関連腹証について
 4-1)古典における瘀血腹証の他覚的表現
 4-2)『腹証奇覧』および『奇覧翼』の桃核承気湯腹証
 4-3)桂枝茯苓丸について
 4-4)臍傍抵抗に対する私見
 4-5)腹証の併存性について
 4-6)上腹部ないし心下の腹証について
5. むすび

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川田龍平議員が語る TPPで医療もアメリカ化する

川田龍平議員が語る TPPで医療もアメリカ化する



TPPで日本の医療はさらに崩壊する

中野剛志氏 TPP「ルール策定は政治力で決まる」

 

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西流・阿蘭陀外科免許状(天和二年1682年)

西流・阿蘭陀外科免許状 (小川古医書館蔵)

■西吉兵衛が西道庵に与えた免許状を西道伴に授けた外科免許状(天和二年[1682年])

Nisiryunanbanmenkyo1

 醫有内外兩科。猶、車有兩輪。若、夫癈其一、則、豈保其生命乎。歴代明醫、所編集外科書流傳至于今者、不為不多矣。尤(もっとも)、雖(いえども)盡服薬之微、未盡敷薬之妙。故患瘡瘍者、咸怠于敷貼之藥徃徃夭死者不寡也。嗚呼、可嘆哉。間、南蛮阿蘭陀兩科盛行于世。誠國家保民命之一助也。抑、兩國爲人物天質巧伎術、自然精、鍜錬尤於外科道、深、研工力厚罄心志、是以芳誉妙手亦冠于世、其學之者無未得外治之妙也。然而世醫或有通其理者未知其事、或有知其事者未通其理、或贖求書于市自称外科者多矣。如此者、專切破突押之術、未知寒熱補瀉之理、譬、盲人、騎瞎馬、闇夜如臨深淵殆哉。
 予自弱冠師事于沢野忠菴學言語且外科向于立歳奉 公命勤象胥之役。故又學外科某切琢年久一且豁然初貫通其理。蓋今、學之者容易欲得之、非啻(ただ)無益治療、復戕賊人而已(のみ)。實豈不幾。以刃殺人。不可不謹。 于兹西道菴、深有外科志、托予學既有年、故口傳心術授之無所遺漏。後人、有欲學之者、斟酌其志意、推明其生質、以可有傳授之也。敢、以其近不可忽之。  
        西吉兵衛尉
   天和二年仲秋上旬
        西氏道菴 花押 印
     西道伴雅丈

________________________________________________________________

 医に内外両科有り。猶ほ車に両輪有るがごとし。若し夫れ其の一を廃すれば、則ち豈に其の生命を保たん乎。歴代の明医、編集する所の外科書流伝今に至る者、多からず為さず矣。尤(モットモ)、服薬の微を尽すと雖(イエドモ)、未だ敷薬の妙を尽さず。故に瘡瘍を患らう者、咸、敷貼の薬を怠り、徃徃夭死の者寡からざる也。嗚呼嘆く可き哉。間、南蛮阿蘭陀両科盛に世に行る。誠に国家民命を保つの一助也。抑も両国人物天質伎術に巧、自然に精しく、尤外科道に鍜錬し深く、工力厚罄心志を研き、是を以て妙手を芳誉すること亦世に冠たり、其の学ぶ者未だ外治の妙を得ざる無し也。然れども、世の医、或は其の理に通ずる者有、未だ其の事を知らず、或は其の事を知る者有、未だ其の理に通ぜず。或は書を市に買求めて外科を自称する者多し矣。此の如き者、切破突押之術を専らにし、未だ寒熱補瀉之理を知らず、譬えば盲人瞎馬に騎り、闇夜に深淵を臨むが如し、殆(アヤウキ)哉。
 予弱冠より沢野忠庵に師事し言語且外科向を学び、歳立ちてより公命象胥(通弁のこと)の役を勤め奉る。故にまた外科某を学び、切琢すること年久しく一且豁然として初めて其の理を貫通す。蓋今、之を学ぶ者容易に之を得んと欲するは、啻(タダ)治療に益無きのみならず、復人を戕賊するのみ。実に豈にすくなからずや。
 刃を以て人を殺すは謹まざる可からず。兹において西道庵、深く外科の志有り、予に托して学ぶこと既に年有り、故口伝心術之を授くるに遺漏する所なし。後人、之を学ばんと欲する者有る、其の志意を斟酌し、其の生質を推明し、之を伝授することある可き也。敢て其の近きを以て之を忽ちにす可からず。  
      
       西吉兵衛尉

  天和二年仲秋上旬(1682年)
 
       西氏道庵 花押 印

    西道伴雅丈

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広島藩における医学起証文(起請文)について

広島藩における医学起証文(起請文)について

小川新(広島市 医師・日本医史学会会員)
広島医学32巻5号(昭和54年5月)

今や第二次大戦後の日本に於ける民主々義時代の学校教育の問題が、大きな社会問題になっているようだ。教育とは何かという最も基本的な問題について、考え直す時にきているように思う。

教育が善悪の問題を含めて政治によって支配されがちであった事は、昔から今に至るまで変わりはない。というのは、所謂権力サイドからの教育と被支配サイドからの教育について、もう一度じっくり考え直す必要があるように思うからである。

ただし、現今のように、どちらが権力をもっているのか分からないような時代に於いては、現在の行政政府と公務員とは必ずしも権力機構ではなく一方は民主という名の金力と、一方はまた、民主という名を大衆におしつけて、ジャーナリズムにアッピールする時代になっていることは、まことに歎かわしい次第である。

ただ、医学の世界は人類の福祉、国民の福祉、大衆の健康、一切の生物の生存という生命を尊重することが大前提になっている。今、私が公開に供しようとする資料は、必ずしもこれに応えうるものではないが、何等かの意味に於いて、少しでもその問題に対する示唆を与えることができれば幸甚と思っている次第である。

なお、広島医学史の大先輩石田憲吾先生が、一度この門人帳を調べてみたいということをいっておられながら果たされなかったので、その要望に応える意味に於いて小川家所蔵のものを公開し、解説を加えてみたいと思う。

■入門誓紙(第一巻)

●小川升運一世に対するもの(金創外科,阿蘭陀外科)(写真1・2)

敬白起請之事

一.貴老金瘡外科之方数年懇望候ニ付 今度御弟子ニ下シ成サレ候恭ケナク存ジ奉リ候以後者御相伝遊バサレ候儀他言御書物他見仕リ間敷ク候
一.自然ノ儀御在候ハバ書物焼捨テ申スベク候

右之条々相脊候者

恭茂(カタジケナクモ)伊勢天照大神惣而(ソウジテ)日本国中大小神祇氏八幡宮之御罰ヲ蒙リ申スベシ仍ツテ件(クダン)ノ如シ
  延宝五年己霜月十六日
(1677)
           吉益半卜(花押)
  小川升運老

(写真1)

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(写真2)

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  • 岸升甫: 寛文10年8月8(1670)       (写真2)
  • 伊藤吉左衛門: 延宝5年9月17日(1677)
  • 吉益半朴: 延宝5年己霜月16日(1677) (写真1)
  • 川井文右衛門: 同上
  • 龍神次郎太夫: 延宝7年卯月25日(1679)

●小川升運二世に対するもの

  • 矢渡道朴: 元禄15年6月4日(1702)
  • 小林角弥: 宝永4年正月27日(1707)

●小川敬元(蓬山)に対するもの(写真3)

起証文之事

一.私儀年来笠坊長庵様御門人に罷有リ候所 此度御門ニ下シ成サレ有リ難キ儀存ジ奉リ候 右ニ付キ自今 御門風規則違脊仕リ申ス間敷ク候 後日ノ為証文 件ノ如シ

   文政九年丙戊十一月廿四日
            山県郡上殿村 今田泰珉 弥隣(花押)

  医易塾 御頭取中様

(写真3)

Kishoumon_houzanimada

(写真4)

Kishoumon_houzanizeki_2

  • 斎藤宣郷: 文化8年正月(1811)
  • 井関玄龍 雅武: 文政8年4月20日(1825)  (写真4)
  • 今田泰珉 弥隣: 文政9年11月24日(1826) (写真3)

■入門証状(第二巻)(写真5)

起証文之事

一.此度私儀御門下ニ被成下候儀奉存候 然ル上者一切御門風之儀相守可申 尤御家方御家書御伝授之儀他言他見仕間敷儀者勿論雖為親子兄弟非其人則決而相洩申間敷候

右之条々於相脊者
氏八幡就中
弥山三鬼神可蒙冥罰者也 仍而証状如件

(写真5)

Nyumonshojo21

  • 北条清斎16才: 文政10年7月 (山県郡穴村来見鍛治所平二子
  • 井上三精: 初学医於豊岡道伯 従先生適於東部 文政11年3月入門(1828)
  • 山田養春: 山田寿軒之子、文政12年正月入門
  • 熊谷左門 宗敬 字菅子: (定京都) 文政12年5月10日
  • 長川亨哲20才: 文政12年9月8日(豊田郡大崎島東野村 碩庵男)
  • 岩田隆菴 名信義 字志道 35才: 文政13年正月7日(豊田郡大草村再造男)
  • 野坂立仙 16才: 文政13年正月17日(厳島野坂玄沢二男)
  • 金屋助次郎 19才: 文政13年正月28日(防州岩国本町本姓小池金屋久右衛門伜)
  • 山本建二44才: 文政13年8月12日(高宮郡中深川村 本姓山本 水上屋吉蔵伜)
  • 川田文調 直之: 天保2年10月12日(1831)、(防州岩国玖可郡伊蔭村 川田助之進伜)
  • 荒木大珉 正信: 天保4年7月18日(世羅郡川尻村医師荒木大成伜 二男)
  • 柄崎理助 義正31才: 天保5年4月4日(豊田郡沼田荘下南方村 組頭 百姓 柄崎茂助伜)
  • 天野屋修作 信愛18才: 天保5年4月28日(三上郡庄原町 社倉支配 天野屋敬八郎伜)
  • 小塚常太郎13才:  天保5年5月15日(広島胡町三次屋伊右衛門伜)
  • 松浦春斉28才:  天保5年12月12日(豊田郡小林村 百姓 殿垣内丈蔵次男)
  • 野津春哉17才:  天保6月2月(堀川町医師野津桃庵弟)
  • 松尾道順24才: 天保6年6月(世羅郡青水村医師松尾正軒伜)
  • 福光元悦 政秀46才: 天保7年8月(恵蘇郡木屋原村)
  • 香川秀策26才: 天保10年9月(山県郡戸谷村)
  • 宇都宮三省30才: 天保11年4月(高田郡上小原村 十郎左衛門伜)
  • 佐々木清之悉18才: 天保11年10月(沼田郡小河内村 庄三郎伜)

■第三巻

  • 宮地俊良実重18才: 天保13年7月25日(1842)(豊田郡沼田荘梨羽郷上北方邑百姓横山勇三郎二男、尾道東土々町唐津屋新三郎養子)
  • 水野元英光忠18才: 天保15年3月27日(佐伯郡原邑医師水野元龍伜)
  • 高沖左内28才: 天保15年7月10日(豊田郡宇山邑百姓平田良伜)
  • 岩田一貞18才: 天保15年11月2日(豊田郡大草村医師岩田隆庵伜)
  • 天野俊平*15才: 弘化3年4月22日(1846)(安芸郡奥海田村医師天野玄霞伜)
  • 園部宗謙 実名忠和20才: 弘化4年2月15日(園部三益伜)
  • 舟川松意利渉18才: 弘化4年3月10日
  • 佐竹玄白* :  弘化5年正月
  • 伊藤賢祐32才: 弘化5年正月(沼田郡伴村伊藤敬順二男)
  • 今井昌菴* 17才: 弘化5年2月20日(防州、|玖珂郡伊蔭村士今井権平伜三男)
  • 森元隣*  実名信重25才: 嘉永元年4月15日(1848) (森栄元伜)
  • 岩政祥策*18才: 嘉永5年8月29日(防州玖珂郡新庄巴 医師岩政厚順伜)
  • 長光文礼: 安政4年2月15日(1857)(世羅郡吉原村医師長光首礼伜)
  • 岩田文斎18才: 万延元年9月朔日(1860)(豊田郡大草村 岩田隆庵二男)
  • 今田言察* 23才: 元治元年甲子孟秋22日(1864)(芸州山県郡上殿河内邑 医師今田寿仙伜三男)
  • 白石道哉* 16才: 元治元年甲子秋25日(芸州高田郡三田邑 医師白石良益伜)
  • 高橋宗的63才: 慶応元年5月21日(1865)(加茂郡志和七条樺坂村 友堅伜)
  • 毛利元洞16才: 慶応元年9月18日(高田郡有留付 医師毛利元郁伜)
  • 高橋元貞31才: 慶応2年3月12日(加茂郡志和七条樺坂村 医師高橋宗的伜)
  • 水野泰亮18才:  (年号不明)2月2日 (佐伯郡原巴 医師水野元英伜)

       (注)*印は次の婦人科誓約之事lこ再出している。

●婦人科、小川道仙に対するもの(写真6)

誓約之事

一.御家婦人科之一流我等執心ニ依ッテ御伝授下シ成サレ候 師思浅カラズ存ジ奉リ候事
ー.病家ニ於イテ堅ク御家法ヲ格ク守リ貧富ヲ分タズ深切ニ療治ヲ施シ更ニ我意ヲ起シ或ハ他流混雑申ス間敷事
ー.御口授并ニ御手術他見他言者申スニ及バズ親類近友為リト雖モ猥リニ見セ申ス間敷事
一.堕胎之術者勿論他家ヨリ堕胎之法ヲ行ヒタル跡ニテハ決シテ療治致シ申ス間敷事
一.治術精練ノ上御請ケ下サレ候へバ思召之上御免許一軸并ニ御剪紙口伝授ケ下サル可ク候有リ難キ次第存ジ奉リ候 尤モ其ノ人熟習ニ堕シ許シ為サレ候儀ニ御座候者其節我等未熟ヲ顧ミズ其ノ人上達ヲ羨ミ我等先輩ナリト存ジ申ス間敷事
一.御免許指出レズ御門下并ニ御破門ノ輩且亦謂ナキ御流儀申立執リ行ヒ仕リ候者之レ有ル候者御家法穢サザル内急速相改メ禁治術ヲ御達申シ上グベク候 窺ズシテ我々門弟子執立申間敷候事

右六ケ条疎路ナク守持仕ル可ク候 若シ違脊ニ於テハ何等ノ咎罪為ト雖モ毛頭遺恨ヲ挟マズ畏奉ル可ク候者也 依ッテ誓文件ノ如シ

  嘉永六年正月
         佐伯郡原村水野元龍伜
            同姓元英(花押)光忠

   東水小川先生

(写真6

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  • 水野元英 光忠: 嘉永6年正月(佐伯郡原村水野元龍伜) (写真6)
  • 今井昌菴 重信: 嘉永6年正月(1853)(防州玖珂伊蔭村 今井権平伜)
  • 岩政祥策 ー亀: 嘉永6年正月(防州玖珂郡新庄邑 岩政厚順伜)
  • 天野俊平: 嘉永6年正月(安芸郡奥海田村 天野玄霞伜)
  • 森玄隣 信重: 嘉永6年正月(森栄元伜)
  • 佐竹玄丈 致遠: 嘉永6年2月
  • 白石道哉: 元治元年12月(1864)(芸州高田郡三田邑 白石良益伜)
  • 今田言察 照清: 元治元年12月(芸州山県郡上殿河内邑 今田寿仙伜)

考察

上記第二巻と第三巻には、誓約した先生の名前が記してない。今この当時の医学教育の状勢について、富士川游先生の日本医学史を参考としながら述べてみたい。

古くは大宝元年、唐制にならって大宝律令が制定せられ、医学教育の制度がたてられ、国医師及び専門科名、試験等について総合的医療行政が完備せられたが、この理想は間もなく廃頽したという。

その後、鎌倉、室町時代を経て、安土桃山時代、江戸時代初期に至るまで公的医学教育機関はなく、江戸中期、多紀元孝によって、明和2年(1765)神田佐久間町に躋寿館が創立されるまでは、教課を組織的に教授する所はなかったといわれている。

また、京都に於いて畑黄山が、天明元年(1781)医学院を創立したが、その頃から全国各藩に於いて相次いで設立せられたという。即ち、秋田藩・明徳館、金沢・明倫堂、和歌山、米沢、佐倉、徳島、福井、津、水戸等々が設立せられた。

広島藩に於いては、天明3年(1783)、京都の医学院創立の翌々年、藩学問所の開館、翌年全国に先がけて、藩医梅園太嶺が儒員として初めて医学を教授したが、藩が朱子学を奉ずる方針をとったため、古学派の梅園は1790年免ぜられたので、家塾を開いて子弟を教授するとになったという。

寛政5年(1793)、藩命により修業堂医学所が開設され、梅園太嶺は再び医学を講ずることになったというのである。しかし、文政11年(1828)廃止されるまでの35年間のみ藩の行政で医学教育が推進された。何故これが廃止されるに至ったかは明らかでない。

この資料に出てくる藩医小川敬元(恭意、蓬山)は、この修業堂医学所筋万端引受になっていたので、地方としては、このように門人が多かったのではないかと思う。梅園太嶺の卒後、この敬元が医学所の教頭を務めていたものと思われる。その点、加茂郡寺家村に於いて塾を聞き、医学生を含めた多くの子弟を育てた野坂完山、佐伯郡廿日市町の高木周沢が、文政10年(1827)から嘉永6年(1853)まで、約70名の医学生 を教育したということは、特筆大書さるべき功績ではないかと思う。

ここに体制側によって行なわれる学校教育と、無体制側によって行なわれる私塾教育の問題は、昔から現在に至るまで自然発生的なものとして多くの示唆を含んでいるようだ。一般に名の欲しいものは体制側に、実力派は私塾側にという傾向は今に於いてもかわることはないようだ。

初代升運の起証文は、いわば私塾的なもので、師弟の間の情熱はその文面及び書体に明らかに現われていて面白い。その点、第二、第三巻は巻頭に起証文を書いであるだけで、後は全部自らの署名のみであるが、道仙(東水)の婦人科のものは、医業所廃止後の私塾的なものに帰った時のものであり、その誓約書は一枚ずつ全部が自筆せられたものである。

次に婦人科誓約書について少し考察を加えてみたい。この道仙は、京都賀川家の門弟であったといわれるが、一貫町賀川正系の門人帳は現存しないし、その詳細は目下不明であるが、賀川流の初代玄悦の弟子であった片倉鶴陵(産科発蒙の著者)の門人に対する誓約書と大体似ているようだ。賀川流の誓約書の流れをくんだものは、大体このような様式であったのではないかと思われる。初代玄悦の産論をはじめ、産科学の分野に於いて国際的業績を挙げていた賀川流に於いても、科としては婦人科という名称になっており、今日のような産科という分類はなかったらしい。また、片倉鶴陵に於いても道仙に於いても、賀川流は凡て堕胎を禁止しているし、他人の行なったものの後始末をも禁じていたようだ。しかし、賀川流以外の他流に於いては、堕胎を禁じてはなかったのかもしれないが、現代の日本の実情をみるにつけても、まことに想像できないことのようだ。無制限に近い堕胎手術の弊害をみるにつけても、もっと真面白に考え直す必要があるようだ。

なお、二巻の終わりから三巻にわたる誓約書のうち天保7年から天保11年に至るまでのものは、誰の弟子であったのか一寸不明である。即ち、小川六代の医家、小川敬元の死亡は、天保6年7月11日になっており、次男養子、藩医元精(小川分家の祖)も天保7年、江戸で卒しておるからである。しかし、元精の跡目相続をした婦人科の道仙が、一般医学を引き続いて教育していたのではないかと思われる。敬元の子、元調(本家小川)が藩医となったのは弘化5年(1848)であるから三巻の弘化以降、慶応に至るまでの一般医学を志望するものは、この元調の弟子として入門したのかもしれない。同一人物の誓約書が二つあり、重複しているということは、道仙卒(元治元年・1864)に至るまでは、一般医学と併せて婦人科をも勉強した弟子があったのではないかと思われる。

【参考文献】

  1. 富土川游:日本医学史
  2. 日本産科叢書、第廿五産術奥義秘訣
  3. 杉立義一:賀川玄悦と賀川流産科の発展
  4. 賀川玄悦顕彰会、賀川玄悦没後二百年記念集
  5. 古賀十二郎:西洋医術伝来史
  6. 広島県史、近世資料編6
  7. 広島県医師会史
  8. 林保登:芸藩輯要
  9. 玉井源作:芸備先哲伝
  10. 江川義雄:日母広島県支部会報、昭和40年8月1日(第5号)

【注】

●小川升運(一世)正広:
生国広島、貞享5年6月1日[1688]卒68才、広島浅野家召し出され寛文5年[1665]。
《小川家譜より》「到東武初仕坪内惣兵衛殿
 、後仕土井遠江守殿、其後長崎御奉行甲斐荘喜右衛門※1殿与力相勤到長崎、有暇日吉永升庵※2為門人受外科医、皈東武後為剃髪改升運医術益盛隆而名於顕于世故加州中納言利常卿雖招呼之有故障再還芸陽玄徳院殿公(浅野光晟)応召拝領恩録賜五十石七人扶持」
(注 ※1甲斐荘喜右衛門=甲斐庄正述  /※2吉永升庵は相州稲葉美濃守正則侍医

●小川升運(二世)義広:
生国広島、享保11年7月24日[1726]卒48才、広島浅野家侍医。元禄14年[1701]楢林鎮山(新五兵衛)より阿蘭陀外科の免許状を授けられる。

●小川敬元(蓬山)意:
生国広島、天保6年7月11日[1835]卒73才、広島浅野家侍医、
 修業堂医学所教導筋万端引受。

●小川道仙深蔵:
生国広島、文久元年4月24日[1861]卒56才、広島浅野家侍医。

 

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阿蘭陀外科楢林一流家伝書(3)

阿蘭陀外科楢林一流家伝書(三) 阿蘭陀薬油之集解(小川古医書館所蔵) ...

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Writings[Todo YOSHIMASU]

Writings [by Todo YOSHIMASU]為應見耳大表    吉為...

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Todo Yoshimasu as a Student

"Commemoration of Todo YOSHIMASU"

Published on 10 November 1973 in commemoration of the bicentenary of Todo YOSHIMASU

Todo YOSHIMASU as a Student

                    Yasuyoshi NISHIMARU[西丸,和義], M.D.

Students are truth-seekers, who pursue truth or what is correct persons who continue to proceed toward this goal all through their life.

Students, therefore, should continue to have a desire and a strong enthusiasm to seek truth. They should be mentally prepared,  that is,  have a philosophy,  for this cause. Students document for posterity what they have pursued all through their life. Their course of life should strongly influence their juniors and serve as a guide to people of other fields of science as well. These would be people who are called top-class characters from the world-wide point of view.

If we should seek such a man among the Japanese, he would be no other person than Todo YOSHIMASU[吉益,東洞] himself. This is clear from the complete collection on Todo and other books by Shuso KURE[呉,秀三] and Yu Fujikawa[富士川,游], the pioneers of Geibi[芸備] Province[today Hiroshima Prefecture].

Seeking truth

With reference to seeking what is true, Todo[東洞] stated, “Neither heaven nor sage exist without truth.”

Enthusiasm

As to his enthusiasm for seeking truth, when at the age of 42 years he fell into needy circumstances with his rice box empty and having his parents and younger sister to support, he declared, “It is destiny whether we become poor or wealthy,  and nothing we need worry about. If Heaven really does not want to lose medicine, it will never allow me to starve to death. No matter how poor and needy I may become, I will never give up my intention and disgrace my ancestors' name,” and he further stated,  “Even if I may starve to death, I would be quite satisfied if my principle is accepted in this world.” This reminds us of the following accounts of seniors. When Galen(130-210) was ordered by the Roman Emperor to accompany him to the field of battle, he refused this order, saying, “I am now experimenting on the spinal cord.” Pavlov(1849-1936) of Russia,  after all his assistants ran away as street battles began in the midst of the Revolutionary War, continued his experiment alone in his deserted laboratory, saying, “I am making a revolution myself.” The accounts of these seniors' enthusiasm for pursuing truth are perhaps the same as the accounts of Todo's enthusiasm. This shows how ardent his enthusiasm for seeking truth was.

When he was at the bottom of poverty and making dolls as a side work to barely eke out a living, Mr. Murano and other friends, unable to look on at his needy plight with indifference recommended him to Lord Sakura as his family doctor and he was accepted. They joyfully reported this to Todo but he refused,  saying, “Now I know you do not know me.” He is also reported to have said,  “I am practising and enjoying what is morally right. Why should I worry about my poverty?” This is like the following account of Dr. and Mrs. Curie of France. When they were carrying on experiments in a gloomy cellar of a night school in Paris with no regular occupation, the Geneva University saw their actual state and proposed to invite them to its completely equipped laboratory as professors, which they refused, saying, “This is the best place for our study.” Here we can see how Todo had lived making life as a student his first principle.

Mental attitude

The mental attitude for seeking truth, or philosophy for study, in his case,  is “Study of ancient lessons will help us to gain something useful.” For instance, perusal of his book “Kosho-igen[古書医言]” (Medical sayings in ancient books) shows that he seemed to have gained much from old Chinese books, especially “Roshi Shunju[呂氏春秋]”(chronicles of the Lȕ clan) and Tso's Henjyakuden[扁鵲倉公列伝] (Biography of Henjyaku[扁鵲], a noted doctor).

However, in order to succeed to the old tradition and make a step forward from it,  he had a philosophy for study,  which was, “If we stick to books too much, we will never in our life master the art,” “Nothing is acceptable unless confirmed by own experiments,  or “Preference for experimentation.” This mental attitude of his is similar to that of students in the days after Vesalius in the 16th century who took the lead in the Medical Renaissance in Europe. Harvey stated, “We should clarify truth by our own experiments, not from others' books or papers.” Jenner discovered the method of vaccination with this same mental attitude. The tradition of the Physiology Department, Cambridge University of England is “See and Do.” Six Nobel Prize winners have so far emerged from the department by this tradition, which is nothing but “Preference for experimentation.” From this, we can appreciate how great Todo’s philosophy for study is.

Documentation

The theory he thus gained was “All diseases are caused by a single “poison.” Drugs are all poisons. “Poison” is controlled with poisons. Our body becomes healthy by purging “poison.” Use of drugs does not serve to increase energy. What more is there to be said?”

Priest Honen left documented 2 days before death what he had pursued all through his life of 80 years. There is a western proverb that says “Our grave-post shows our words.” Claude Bernard(1878) said, “Life exists by homeostasis of extracellular fluid.” Like these, Todo's documentation is also very splendid.

Guidepost

This life of his served as a guide-post for his juniors not only during his life but also for 200 years after his death, as the following shows.

In guiding his pupils, he used to say, “You should not be bewitched by the fox of Chukei” and warned them not to swallow indiscriminately the writings and words of predecessors. He even said, “Don't observe the words from Yoshimasu's tongue.” These are wise words for his pupils to follow.

The “Ruijuho[類聚方]” (Medical Methodology of Collection and Classification) he wrote for people other than his own pupils became a best seller of the day. Some parts of it have been reprinted in China to serve as a “Bible” for Chinese medicine. Among the doctors who made original studies in the age of Edo,  Seishu HANAOKA[華岡,青洲],  who is internationally famous for his study on anesthesia, is a pupil of Nangai YOSHIMASU[吉益,南涯] who succeeded to the tradition of Todo. He perhaps succeeded in his scientific experiments because he learned Todo's study philosophy through Nangai[吉益,南涯] and was influenced also by western medicine.

Recently, Shuso KURE[呉,秀三], Yu FUJIKAWA[富士川,游], etc. studied Todo[東洞] and many people must have shared the recollection of Shuso KURE[呉,秀三]. who said. “After aspiring to study medicine, I have always admired Todo's[東洞] spirit and enterprise.”

The fact that votive offerings totalling 6 million yen were immediately collected in this plan to erect a monument to honor Todo YOSHIMASU[吉益,東洞] shows that even now there are many people who admire his character and look up to him as a leader.

From the above-stated, it can be said that he is a precious guide of life for not only those studying medicine but also those making other pursuits in life.

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Weblinks

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Illnesses Caused by A-bomb Radiation and Folk Remedies for them

November 1989

Illnesses Caused by A-bomb Radiation and Folk Remedies for them
-Wisdom of Folkway -

OGAWA Arata Ph.D./小川新(医学博士)

Contents
Preface   
1. Death Rate

2. Symptoms of Initial Radiation Damage

(1) Vomiting, Nausea, Anorexia   
(2) Diarrhea   
(3) Purpura of Petechia   
(4) Epilation   
(5) The Oral Pharynx Focus   
(6) Bleeding   
(7) Fever
 
3. Medical Treatment of Modern Western Medicine at an Early Stage
(1) Burn and External Injury   
(2) Guides on Remedy given by Prof. Tsuzuki. (September 3, 1945)   
1) Severely wounded (leucocyte count less than 1000 )   
2) Slightly wounded ( epilation, oralinfection, diarrhea, leucocyte count over 1,000)   
3) Mildly wounded ( light epilation, diarrhea and gingivitis)   
(3) Report on Medical Treatment for the Injured at Early Stage:   
The acute period (up to the second week)   

4. Folk Remedies
(1) Folk Medicine   
(2) From the local press   
(3) A Relief Report by Prof. Nagai (from August to October 1945)   
(4) Explanation of my Research Data on Folk Remedies   

5. Descriptions of “Folk” Remedy and Medicine
6. Description of Folk Medicines and Cases Treated with
 
(1) Houttuyniae Herba (Juyaku)   
(2) Leaves of Cinnamomum Camphora Herb   
Case of 18 years old young man   
(3) Leaves of the Japanese Persimmon Herb   
(4) Cipangopal Udina Herb   
(5) Salt Water   

7. Fresh Vegetables and Fruits   
8. Moxibustion
 
(1) Symptoms on Oral Cavity, Stomach, and Intestine. (with diarrhea)   
(2) Acute Radiation Disease   

9. Vomiting Method
10. The Concept of the Poison (drugs) and the Actual Treatment
11. Problems of Late Appearing Disorders from Radiation (illustration by examples)
12. Summary
Conclusion

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昨今の“東洋医学界”

昨今の“東洋医学界” 過去のエントリーより抜き書きです “矢数道明先生を偲ぶ...

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肝疾患の臨床_特に肝癌・肝硬変

『漢方の臨床』43巻6号,1996年

肝疾患の臨床_特に肝癌・肝硬変

小川新

■序
 肝癌は漢方的に言うならば肝積にあたるが、それは悪性腫瘍と称するほうが理解し易い。慢性肝炎も肝硬変→肝癌というパターンが最も多いが、肝癌としてはじめから、慢性肝炎を経過することなしにおこす原発性肝癌は少ない。私達の臨床的経験から類推するに最も多いのは、肝炎、肝硬変から移行した続行性肝癌である。
 次に多いのは、転移性肝癌である。胃癌・大腸癌・直腸癌・胃癌・前立腺癌・子宮癌・卵巣癌等であるが、これら続発性癌ないし転移性肝癌についての臨床弁治の実際を報告し、御参考に供したいと思います。

■肝癌の予防について
 これはいかに肝硬変を治療するかにかかわっている。
 その随証療法が完全であればあるほど肝癌になりにくく、不完全な随証療法の下では、肝硬変も治癒しないし、肝癌の予防にも役立たないわけである。
 現在日本で行われている肝硬変の治療には、次のようなものがある。

A、一般的随証療法
 代謝性肝硬変・非代謝性肝硬変でも、その治療方剤は大体下記のごとき方剤の範囲に限られている。即ち補中益気湯・茵蔯五苓散・小柴胡湯・桂茯丸・加味逍遥散・小柴胡湯合茵蔯五苓散・十全大補湯合茵蔯五苓散・補中益気湯合人参湯・六君子湯・人参湯等である。

B、私の随証療法
 ここ(上記の一般的随証療法)に不足する方剤は、
1)柴胡剤としては、柴胡疎肝湯加減、四逆散加減、
2)駆瘀血剤としては四物湯加減、当帰芍薬散加減、大黄牡丹皮湯、血府逐瘀湯、
3)清熱利湿剤として龍胆瀉肝湯加減、半夏瀉心湯加減、小陥胸湯加減、黄連湯加減、
4)利水剤として胃苓湯加減、補気建中湯加減、補中治湿湯加減、紫円、
5)附子の入ったものは、真武湯、茵蔯四逆湯、茯苓四逆湯、
6)駆瘀血薬について、当帰・芍薬・柴胡・丹参・三稜・莪朮・別甲・延胡索・紅花・桃仁・乾地黄で活血軟堅するのである。
私の日常臨床に於ては、肝硬変、肝癌には、三稜、莪朮を多用して効果をあげている。その実際を述べたい。

C、補脾胃について
 肝癌治療において忘れてならないのは、『金匱要略』では「上工は未病を治す」とあるように肝剋土即ち肝病が脾胃の機能的衰退を来せば治らないことになるので充分そこを配慮しなければならない。そのためには六君子湯、人参湯、補中益気湯、などを用いることになる。そこでも三稜、莪朮のような活血化瘀薬を用いる必要がある。

■〈症例報告〉弁証論治の実際

【症例1】OT、男
初診:平成5年11月14日
既往歴:1歳時、膿胸、20歳時、肺炎で死にかけた
現病歴:8年前から糖尿病といわれ、血糖値は200前後で血糖降下剤を服用している。
約5年前検診で肝炎といわれ治療していたが、最近6ヵ月間に体重が3・4㎏減少し、下肢しびれ感、耳鳴り、口渇、肩凝りがある。最近GOT 74,GPT 97,LDH 339、ALP 204、γ-GTP 186、硫酸亜鉛 112.4、チノール 4.5、総コレステロール 143
脈証:右寸関尺は弦であるが、左寸関尺は微細である。
腹証:図1の如く、肝腫大は右肋骨弓下に三横指、脾臓は左肋骨弓下に一横指腫大している。小腹不仁がある。

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治療:四逆散6gに八味丸3gを併用し様子をみていたが、3ヵ月後には肝臓は4.5肥大、脾は2.0横指大に肥大、右脇腹の疼痛がひどくなってきた(図1)。 しかも、肝臓のふれる部分では硬い凸の部分があり、肝癌を考えた。そこで方剤は四逆散加延胡索3.0、茯苓3.0、白朮3.0、莪朮3.0、三稜3.0を6週間投与した。6週間後には肝腫大は1.5、・脾腫大は1.0となったが体重は減って、全身倦怠感を訴えるので、補中益気湯に莪朮・三稜に転向した(図2)。

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この処方を15週続けてみたが再び右脇腹痛を訴え、夕方足が腫れるというので腹証してみるに、肝は4横指、脾は3横指大に腫れていた(図3)。そこで八味丸3に四逆散・茯苓4・白朮4・莪朮3.5・三稜3.5・延胡索3を投与したら4週後には肝は2横指人に、脾は触れず、足のしびれも取れ、腹痛も取れ、常に調子が良いということである(図4)。

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 要するに、
1)初めのエキス剤では効かなかった。
2)四逆散加莪朮三稜の煎剤はよく効いた。
3)補中益気湯加減の補剤を中心とした場合、完全に悪化した。
4)補中益気湯で調子のよくないことは腹証及び自覚症に現れたことである。漫然と補剤を投与してはならないことを痛感した次第である。

【症例2】30歳の肝癌疑(インターフェロン治療後)、男性
初診:平成5年(1993)年12月
現病歴:
昭和62(1987)年4月、インターフェロン600万単位
平成3年(1991)600万単位
平成4年(1992)600万単位
と3年間にわたりインターフェロンをやり、強力視ミノファーゲン注射もしたがGOT 1300になったりして余りきかなかったという。
平成5年2月超音波で1cm大の腫瘤が2個ありといわれ、アルコールブロック注射をすすめられたが、どうも信頼できないというので来院した。
脈証:左関と尺は沈細なるも、右寸関は弦である。右尺はやや沈である。
腹証:図の如く右左肋骨弓下は少し抵抗がある。しかし、下腹鼠径上部特に左側に於て圧痛と抵抗がある。右側にも少のである。11ヵ月の肝機能検査ではGPTが92であった。腹証は図の如く右肋骨弓下には少し抵抗が残っている。左下腹し圧痛がある(図5)。

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弁証:脈で左関尺が沈細であることは、肝腎の虚証を意味しているが、腹証で上腹の抵抗は柴胡の証があること、下腹は定型的四物湯証であるので、四物湯に柴胡3g、さらに駆瘀血薬として桃仁3g、莪朮3g、を投与したら約6ヵ月後にはGOT 32,GPT 59と正常になり、γ-GTP 16、硫酸亜鉛 12.6、チモール 2.7、コレステロール 166というように殆ど正常化した。
 この処方を服用すること約1年後、超音波検査では何もないということになった。腫瘤の映像はなくなったという部、鼠径上部は腸骨前上棘に近く圧痛が残っている(図6)。
 脈証は左関が少し弱いのみで、他は正常に近い脈であった。この腹証によりこの処方を更に2・3ヵ月服用すれば完全治癒ということになるだろう。

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【症例3】男、51歳
初診:平成6年6月14日
現病歴:平成6年末、軽い黄疸あり、右上腹部痛があった。
平成6年1月C・T検査で肝癌と診断された。
平成6年3月肝癌の手術をうけた。
肝左葉全剔、右葉は癌になりかかっているといわれた。
術後3ヵ月目に来院したわけであるが、心下に痞えがあり、ゲップがよく出るし、時々心下に自覚痛があるという。足の裏はいつも燃えているという。少し口渇あり、排便は1日1〜2回で軟便であるという。
既往の服用薬は、アルダクトン(降圧剤)、カスター(H2受容体拮抗剤)、ウルソサン(肝胆消化機能改善剤)、ナウゼリン(消化管運動改善剤)、ラックビ(整腸剤)
脈証:左寸関尺は微細、右尺は微、右関守は弦、足脈少陰左右ともに沈(+)、ふ陽は左右ともに緊、腎機能をみるに手脈ではかなり減退しているが、足脈は健康に近い。
腹証:上腹部圧痛が著明であり、心下痞硬がある。坐位で1.5横指肝腫大をふれる。下腹は両そ臍径部に抵抗と圧痛がある。両脇胸はつめたいが、心下の中央部及び両胸部では熱感帯がある。(図7)

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弁証
1、曖気
2、心下のつかえ(痞)と圧痛
3、心下の抵抗・圧痛
4、坐位で心下において肝臓腫大1.5横指触知
5、脈証において右寸関は弦で熱をもっている。しかし、左寸関尺は沈細で肝腎の虚衰をしめしている。
1・2・3・5によって半夏瀉心湯の証とみた。また、足裏、熱感と下腹の腹証を参考として、六味丸を兼用することにした。更に制癌効果を発揮するために、莪朮3、三稜3を加えた。これを8ヵ月運用して、調子が良いという。
平成6年5月の腹証(11ヵ月後・図8)
心下の圧痛はまだあり、下腹の圧痛は右側臍腰部に少し残っている。便通は一日1回で良い。これを続けてやるつもりである。CTは最近行ったが、癌は大きくならず、停止したままである。病名にかかわらず、随証療法の大切さを知ったわけである。

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【症例4】男、74歳
初診:平成5年3月10日(1993年)
現病歴:昭和60年(1985年)脳血栓で、右半身が麻痺したが、3ヵ月後に回復した。昭和63年(1988年)大腸癌の手術をした。しかし、平成2年(1990年)には肝臓と肺に癌転移したので、肝の左葉全摘と肺の部分切除を受けた。平成3年(1991年)肝の右葉に転移したので、手術を勧められたが断り、制癌剤を服用していたが、漢方治療を求めて来院した。
主訴:右胸脇下部に抵抗と鈍痛あり。肩こり、腰痛、膝関節痛、喘息様症と咳嗽、夜尿2回、白内障もある。
脈証:左寸関尺は沈細、主尺も沈細、左寸関は弦となっている。
腹証:左脇胸部に抵抗あり、半坐位で、触診するに肝は右葉1.5 横指硬く腫大している。圧痛もある(図9)。

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経過:この肝腫大、圧痛により、四逆散加伏苓4、白朮4、更に除痛のために延胡索3を加えた。これを約14週投与した。しかし、1993年8月に血圧172−96というふうに最低血圧も高く、後頭部痛があり、脳血栓という前歴もあるので、八物降下湯に菊花・貝母・莪朮・三稜を加え、八味丸3を兼用したら、約12週後(平成6年7月)には、162−88となった。しかし眼の充血と流涙があり、頭の湿疹が治りきらないので、明朗飲に茵蔯蒿3、莪朮3、丹参3を加え、これに調胃承気湯を兼用して今日にいたっている。C・T 検査では右葉の腫瘤は大きくならないで、癌の進行は停止している。肺には転移はない。

【症例5】58歳、女性
初診:平成6年5月20日(1994年)
現病歴:25年前、胃ポリープで出血したので、胃切除を受け輸血したが、血清肝炎をおこしたという。その後、家事に忙しく元気であったので、検査も受けず肝炎したことも忘れていたのが、平成5年末から風邪が治らず、時々咳があったが、非常に疲れ易いので、平成6年5月、呉市の某病院で検査をうけたところ肝臓が腫大していることが分かった。早速、主人の勧めで漢方治療を受けるべく来院した。
現症:体格は少し痩せているが、筋肉質で丈夫そうな体格である。舌は真っ赤であり、熱をもったようになっている。
脈証:左寸と右尺脈は沈細である。右寸・関、左尺脈は弦である。左右小陰脈は沈(−)、左右趺陽は緊(+)である。
腹証:図の如く肝腫大あり。正中線で10 cm、右肋骨弓下で8cmという風に著明に腫大している。下腹は恥骨上部は縦に2本の抵抗がある。胸には図の如く右乳、左乳に熱感帯がある(図10) 

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X線所見:右肺門部は大きく腫大している。骨盤のうち、左腸仙関節は変形がひどいが腰椎4・3には少し変形がある。
弁証論治:胸のX線所見によれば、肺門部は大きく腫れている。おそらく肺門部リンパ腺の腫張が著しいことを示しており、風邪のこじれがすでに6ヵ月に及んでいることから、このねばい痰が喉にかかり易く、睡眠も充分にとれないので、まずこの慢性気管支炎を治すことに主眼を置き『寿世保元』の竹茹温胆湯加減を投与することにした。柴胡3、竹茄3、茯苓3、麦門冬3、半夏5、香附子2、桔梗2、陳皮2、枳実2、甘草1、人参1、黄連は1.5に増やし、莪朮3、三稜3を加えた。3週間後、咳はとまり、痰が少なくなったが、肺門部腫脹所見は短期間では治らないと見て、この清熱去痰、活血化瘀剤を長期に投与することにした。即ち12週(約3ヵ月)連用した。肝腫大は肋骨弓下7cm、正中線8cmという風に小さくなってきたが、食欲はあるが食後胸の圧痛感があるというので、四逆散に茯苓・白朮・莪朮・三稜を加えて肝臓主体の処方にかえ、食後には苓桂朮甘草エキス9g、または竹茹温胆湯エキス7gを兼用することにした。
 かくして13週後には正中線は最初10cmであったことをみれば、7ヵ月足らずで正中線7cm、肋骨弓下5cm大と小さくなり驚いたわけである(図11)。下腹には小腹不仁があるので、八味丸3gを兼用し、完全に健常になるまで投与を続けるわけである。
考案:この肝硬変がこのように順調に投与方剤に反応して劇的に治癒の方向に向かっていったことは何故であろうか。それは、投与方剤の随証療法が比較的適切であったといっても、それはむしろ、永年、医療を受けないでつまらない肝炎治療による壊病的なものがなかったことが幸いしたのではないかと思っている。 

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【症例6】男、51歳
初診:平成4年3月14日
現病歴:大酒家で1本のウィスキーを2・3日で空にするという。酒を飲まないと眠れないという。1年前肝炎があるといわれた。昨年秋からアレルギー鼻炎でよく鼻水が出ていた。東京の友人も同じように鼻水があり、葛根湯エキスを服んだらよく効いだということを聞いて自分もこの葛根湯エキスを3ヵ月間毎日販んでいるが服んだとき、ちょっと鼻水がよかったので続けて飲むつもりでいた。しかし、彼の妻がこの主人が次第に痩せていき、食欲もなくなり、1日3回下痢様便を出しているのをみて、心配になり、東京のメーカー本社にこの症状を相談したら、当医院に相談しなさいということで訪れた。
現症:やせ型の活気のない、いかにも冷え症のような顔をしている。
脈証:左関・尺は沈細、右寸・尺も沈細となっている。右関と左尺は陽気が残っており、弦脈を呈している。
腹証:心下正中では3横指、右肋骨弓下で1.5横指肝腫大がある。下腹正中は小腹不仁であり冷たい(図12)。
弁証論治:下痢及び下腹冷感によって、真武湯を投与することにした。附子は1gである。これを連用するうちに1年半、肝腫大は正中線でふれなくなった。γ-GTP以外は正常になった。 

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【症例7】女、昭和9年4月生まれ
初診:昭和62年9月9日
現病歴:2年前からGOT 204、GPT 288であり、慢性肝炎といわれている。風邪のために抗生物質を5年間断続的に服用した。1カ月位微熱と咽頭痛がつづいたが、お灸で治ったことがある。今、自覚症状は余りないようだが、仕事をすれば疲れやすいという。
治療及び経過の大要
 初診から2年8ヵ月間即ち1990年5月に超音波で肝硬変といわれたがGOT はいつも100〜300、GPT 200〜600前後で安定せず、治療も効果も充分でないので悩んでいた。今、その迷いの処方内容を順次紹介してみたい。
 小柴胡湯加桔梗茵蔯蒿・加味逍遥散・小柴胡湯合当帰芍薬散・甘草瀉心湯、補中益気湯・増柴胡4.5・加霊芝3.0・山梔子2.0などそのときの証に応じて方剤を処したわけであるが、患者の自由意思で或る大病院で超音波エコーをとったら、肝硬変ありといわれたという。この時改めて腹証したところ、図の如く肝臓は正中線で2横指、脾臓も1横指腫大している(図13)。以来、ただの肝炎という考えを改めて肝硬変のつもりで治療することにした。
 しかし、その処方にも色々と迷いがあった。
1)四逆散加茯苓3、白朮3、霊芝3、別甲3、
2)四君子湯加別甲2、柴胡3、
3)当帰芍薬散加山梔子、黄連1、黄芩1、莪朮3
などを服用したが、腹証でも全くよくならず、肝臓には凹凸があり、下手すれば癌に移行するのではないかと心配して、改めて脈証をみるに左関と尺脈が微細である。これは初診以来変化していないことは腹証に於ても治らないことに気付き、改めて肝虚を捕しながら、清熱し駆瘀血することを確認したわけである。 

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 そこで、1993年7月、六味丸を兼用し、当帰芍薬散加莪朮3.5、柴胡3、黄ゴン1.5、決明子3、山梔子1.5という処方を約10ヵ月間服用している。脾もふれないで肝もわずかにふれるのみとなっていたが、その頃3年ぶりで超音波検査を受けたところ、エコーでは肝が正常化しているので、担当医から何をしにきたかと問われたという。患者日く、「3年前に肝硬変と言われたので、その後ずっと治療してきたのです」と。このような押し問答があったと言うので驚いたわけである。私から見れば、この3年間のうち、肝肥大、脾肥大が正常化する方剤を出したのは半年足らずであったわけである(図14)。これでやっと方証相対の処方構成になったのではないかと思ったのである。
 ただ、本人持参の超音波検査報告書を見るに、右腎に直径1cmの嚢胞があるという。この肝病が腹証・脈証に於て、非常に難治性であったのは、この腎疾患があったからではなかったか。昔から肝病治療にはいつも腎機能を配慮する必要があると聞いていたが、この腎嚢胞の存在による腎機能障害が治療をさまたげていたのだということがわかったわけである。
 このようにみてくると、この治療方剤は変える必要がないので、現在もこの六味丸合当帰芍薬散加減を服用し、元気でいる。 

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◎方意について
1)六味地黄丸は、熟地黄・山茱萸・山薬・茯苓・沢瀉・牡丹皮の六味であるが、腎陰虚に用いる。肝血虚に用いる熟地黄に山茱萸を配合して肝腎を補益し、茯苓と山薬で健脾利湿し、牡丹皮で涼血清熱し、沢瀉で利水する。
2)当帰芍薬散の当帰は補血と滋潤の作用があり、芍薬6.0は血虚を補い川芎3.0も血を補い、気をめぐらす。それに、茯苓4.0白朮4.0を加えて、脾胃の水をさばき、沢瀉4.0で利尿する。一般に冒眩・心悸・小便不利を治するが、この患者の腹証には下腹即ち右回盲部・左S字状部に浮腫性の抵抗がある。これが当帰芍薬散の腹証である。この当帰芍薬散に清熱薬即ち柴胡3、黄芩1.5、山梔子1.5、決明子3を用いたのは何故か。
 この患者は時々パーッとあつくなったりすることが多く、初期には牡丹皮・山梔子の入った加味逍遥散を多用したが、眼も充血し易く、山梔子のうえに更に決明子を加えた。
私は心病・肝病を治すときには眼の充血を見逃さないように、この眼と心肝を一体のものとして弁証することにしている。これに莪朮3.5を加えたことは駆瘀血の働きを強めるためにであった。

◎莪朮・三稜の薬能について
1)莪朮について
辛・苦・気・温で肝経の血分に入り、気中の血を破るといわれている。肝経の聚血を通じ、瘀を消し、通経開胃化食解毒すといわれ、破血行気薬として補脾胃薬を加えて用うとなっている。東垣は肝に限らず、心・肺・脾・腎の積にも三稜といっしょに用うとなっており、小生もこの東垣に準じた用い方をしている。特に肝癌に於ては、莪朮・三稜をいっしょに用いている場合が多い。
2)三稜について
苦・平・肝経血分に入り、血中の気を破る。または、肝経の聚血を通じ、脾経に入って、一切血瘀気結、食停、瘡便老塊、堅積を散ず、となっている。
 私は、一切の積・聚・癌に多用し、効果をあげている。

◎癌の疼痛について
1)柴胡疎肝散・四逆散加減(行気正消)
疼痛のひどいときには、これに延胡索を加える。(症例3)
除痛しながら、柴胡・芍薬・延胡索は制癌効果をもっている。一挙両得というべきである。
2)血府逐瘀湯
これには四逆散が入っている。(血瘀阻滞)
3)導痰湯・半夏白朮天麻湯(健脾燥湿・化痰止痛)
4)黄連解毒湯(熱毒による)
5)八珍湯・附子理中湯(益気養血、温補脾腎)

■総括
1)肝癌の予防は、肝硬変を予防すること、又肝硬変を出来るだけ完全な随証療法をして癌化しないようにすること、漫然と治療していては予防にはならない。
2)現在のエキス漢方を中心とした場合は、完全予防にはならない。
3)駆瘀血薬について、もっと広げる必要がある。私は出来るだけ日本漢方家にとって身近な薬物を用い、中医学の先生方のように多種のものは必要ないように思う。
4)補脾胃を忘れてはならない。
5)症例1は糖尿病と肝硬変で、補中益気湯・莪朮三稜で悪くなり、四逆散加茯苓・白朮・莪朮三稜・延胡索兼八味丸で、肋骨弓下4.5 横指大が、4週間後には肝臓は2横指人に一気に縮小し、脾臓の2横指人は消失し、著効をみた。
6)症例2は肝腫瘤(インターフェロン治療後)腹証は、ことに左右ソ径上部の圧痛抵抗を第一目標とし、四物湯に柴胡・桃仁・莪朮を加えた方剤を投与したが、1年後、超音波検査では腫瘤は完全になくなった。
7)原発性肝癌左葉全摘後、右葉も癌転移疑あり。右葉は心下に1.5横指触知したが、心下痞硬曖気により、半夏瀉心湯に莪朮三稜を加え、足裏熱感を目標として六味丸を兼用した。1年間の短期問ではあるが、少なくとも癌の進行は停止し、体調は良好ということである。
8)10年前に脳血栓、7年前に大腸癌手術。術後2年、肺肝に転移し、肺部分と肝左葉を全摘。しかし、肝右葉に転移、来院した。現在2年間、漢方治療をしているが、肝腫大と圧痛により、四逆散加茯苓白朮延胡索を14週投与し、経過順調のように見えたが、高血圧、頭痛あり、痰も多く、脳梗塞の前兆もあり、八物降下湯に菊花・貝母・莪朮・三稜を加えた方剤を約12週、更に明朗飲に茵蔯蒿3、莪朮3、丹参3を加えたりなど紆余曲折の経過をたどった。最近のCT検査では、肺転移もなく、肝腫瘤も大きくならないで停止している。
9)血清肝炎後20年放置していた肝硬変であるが、6ヵ月前から罹患した慢性気管支炎を竹茹温胆湯加莪朮三稜の随証療法を行い、約3ヵ月後から、四逆散に茯苓・白朮・莪朮・三稜を投与したら、7ヵ月後には肝腫大は半分位になった。
10)アルコール性肝炎にも真武湯証あり、大黄牡丹皮証あり、寒証・熱証の両極端と寒熱爽雑のものあり、証に応じて論治することの重要性を提示した。
11)6年3ヵ月継続治療したが、慢性肝炎は肝硬変に進行し、危うく肝癌に移行するかに見えた肝硬変を薄暮の模索の如き治療でした。証を適格にとらえることに苦労したが、改善していないことに気付き、改めて脈証と下腹の腹証によって当帰芍薬散に柴胡・黄芩・山梔子・決明子・莪朮を加えた補肝・補脾に疎肝・清熱・駆瘀血薬を加えた方剤に六味丸を兼用することによって10ヵ月後には肝硬変がなくなり、肝炎にもどってきた症例である。柴胡剤を中心とした方剤を漫然と投与していたが、2年8ヵ月後のエコー検査では肝硬変と診断され、我が治療の無力さを証明したが、更に模索することに2年余、癌化することを危慎したが、最後は脈証と腹証を見直すことによって一気に軽快していった。

諸賢の随証治療に御参考になればと思い、 小生迷いの軌跡を報告いたしました。

※昨年10月、日中学術交流会議を癌を中心としてシンポジウムを開催したが、上海中医薬大学の肝癌専門家も莪朮、三稜が最も効果ありと言ったので、所は異なっていても、結論は同じであったことに驚いた。

【掲載:『漢方の臨床』43巻6号,1996年】

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原子爆弾傷、特に原爆症に対する民間療法「伝承の英智」(改訂)

(改訂)主な改訂:「放射能」を「放射線」「放射性物質」などと改めた (by_ささふね)

〈核戦争防止国際医師会議[IPPNW]広島大会_特別発言・1989年10月〉 
原子爆弾傷、特に原爆症に対する民間療法「伝承の英智」

小川新(広島・医師)

もくじ

序   
1. 死亡率   
2. 一次の放射線・放射性物質による被曝による障害の症状(日米合同調査団の資料による)   
 (1)悪心 嘔吐 食思不振   
 (2)下痢   
 (3)出血斑ないし点状出血   
 (4)脱毛   
 (5)口腔咽頭病巣   
 (6)出血   
 (7)発熱   
3. 早期西洋医学的治療   
 (1)熱傷、外傷   
 (2)都築博士治療指針(昭和20年9月3日)   
 (3)早期治療報告(直後から二週間)   
4. 民間療法   
 (1)民間薬とは   
 (2)都築博士を囲む座談会(昭和20年9月11日)   
 (3)永井博士救護報告   
 (4)私の資料内容   
5. 被爆民間療法の種類及び民間薬について   
6. 民間薬の種類と症例   
 (1)ドクダミ(重薬)   
 (2)楠の木の葉   
 (3)柿の葉   
 (4)田螺(タニシ)   
 (5)塩水   
7. 生野菜及び果物について   
 (1)被爆医師の言葉   
 (2)被爆薬剤師の言葉   
8. 灸法   
9. 吐法について   
10. 毒という概念と治癒の実際、吉益束洞のこと   
11. 後障害の問題   
12. 総括   
結語   
〈文献〉 

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[広告]月刊誌「ナショナルジオグラフィック日本版」

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1945年昭和20年8月6日、広島において人が人を殺害する原子の核分裂エネルギーによる爆発物の最初の経験をしたが、その苦しみ、悲しみ、嘆きは真に筆舌に尽くし難く人類の一大悲劇である。・・・

・・・家屋の倒壊は免れたので、多くの市内で被爆した縁者たちが身を寄せていた。被爆直後(初期)は無傷であった彼らも、脱毛、発熱、皮膚出血、発熱、歯齦出血、下血しながら、口の中は壊疸性潰瘍となり、8月下旬から9月初旬にかけて次々と亡くなっていった。いわゆる第二期のもの即ち、被爆後2週目位から発症するもので、死亡するものが非常に多かった。

医薬品としては、ブドウ糖一本でも貴重であり、火傷に用いる油類、リバノール、マーキュロクロームなどの外は、包帯類もない状態だった。赤十字国際委員会駐日主席代表のマルセル・ジュノー博士(Dr. Marcel Junod:1904-1961:スイスの医学者)が来広し、原爆被害の惨状を知ると直ちに連合軍司令部に医薬品の提供を要請したことによって、やっと医療らしいことが出来たのは、9月20日過ぎであった。

それ故、野山の一木一草、薬になるものなら何でもよいという状況であり、医薬品を求める人々の願いはまことに切実であったが、私達医師は為す術もないという状態であった。

・・・このような極悪な医療環境の中で、言い換えれば民間療法というか、伝承の智恵による医法しかないような状況下で行われた治療法であったことを銘記していただきたい。それは殆ど医師とは関わりなく行われたもので、表の医学・医療ではなく、アンダーグランドの医療であったので、医師を中心とした原爆医療に於いては、全く無視されてきた分野である。この隠れた医療の智恵を直接大衆から聞いてみたいと思つつこの三十年が過ぎていった。

・・・次第に何か他の方法で一般大衆から直接体験の情報を得るしか方法がないという思いに至った。しかし年数を経るにつれ生存者は少なくなり、被爆の体験は風化の一途をたどるばかりある。一刻も早く記録に残こさねばと思っていた。

そんな折り、幸いな事に広島の中国新聞社の山内記者が、私のこの思いを理解して下さり新聞報道されることとなった。即日被爆者およびその縁者の方々より体験情報が寄せられ、今回発表の内容となったわけです。

現今でも原子力発電事故などの放射線障害・放射性物質による被曝の障害は、我々の身近にもあり、そして人類が人類の身をもって行った多数の犠牲者の冥福を析るためにも、寄せられた貴重な経験を将来の人類の健康に役立てようと思いこの論文を書いた。

なおこの論文は、核戦争防止国際医師会議[IPPNW]広島大会で講演するため東洋医学の知識に乏しい西洋医学を主体とした欧米の医師達のための啓蒙論文であることをご理解いただきたい。

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小川清介のこと-「老いのくりごと」より “幕末より明治期にかけた変動期に於ける一医師の記録”

(掲載)「広島医学」Vol.32 No.4 、1979年4月 記・小川新 小...

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