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2017年3月

「吉益東洞顕彰碑 」広島大学移転の経緯

「吉益東洞顕彰碑 」広島大学移転の経緯
小川新1995年

 吉益東洞を知らずして曰本漢方は語れないという程の医傑は1701年に広島市銀山町で誕生し、1772年京都市東洞院通で没した。
 卒後二百数十年を経ても、彼を尊崇し、その著作によって古典医学を学習し、難病治療に応用している医師、薬剤師は跡を絶たない。近世から現代に至るまで、日本の東洋西洋の医学医療に大きな功績を残してきた。
 昭和48年11月10日広島県医師会長大内五良氏により、東洞没後二百年を期して、その「人となり」を敬仰して、その顕彰碑を医師会館前庭に建立した。それは「光芒世界を照らし、天下の医を匡す」というイメージを現わした石の芸術家による傑作であった。
 これに啓発されたかの如く、広島漢方研究会をはじめ、全国の漢方臨床家による日本東洋医学会会員への呼びかけがおこり、吉益東洞碑を作ろうという気運が高まった。
 昭和49年7月、大塚敬節先生の筆になる「吉益東洞先生之碑」を東洞の母方の谷氏菩提寺広島市寺町報専坊の門のすぐ側に建立する事となった。
 さて、碑が設置された報専坊という寺は、江戸中期西本願寺との三業惑乱論争に決着をつけた僧・大瀛(だいえい)を出した寺である。この僧は新古義派を主張し、親鸞に帰れといって改革を主張し、本願寺を屈伏せしめた傑僧であった。この僧の顕彰碑と東洞の顕彰碑が並んでいたことは、まさに二人の改革者に相応しい組み合わせであり縁の不思議さを感じた。この寺には外国の医師、特に中国中医師たちにも折にふれて案内したので、彼らにとっては江戸中期から現代に至る日本漢方の伝統的特徴を理解する上で非常に効果があったようだ。
 しかしながら、昨年(平成6年)秋報専坊から、本堂の大改築に伴いまた諸種の事情により境内の一等地を空けて欲しいという申出があった。なぜこのような事になったのかと早速この寺の総代氏と面談したが、高額な金銭的なことが絡んだこととなり会談は暗礁に乗上げた。このような状況で、東洞碑の歴史的文化的意義も理解し得ない人達と話し合いをしてもすれ違うばかりで交渉は纏まらないと思った。この寺の住職様も顕彰碑建立の有力な発起人であっただけに、さらに無念だった。このような状況で移転しなければならないとは、真に東洞先生に失礼であり心苦しい思いであった。
 この移転問題を、大学時代の同窓同級生の産婦人科専門医で、日本医史学会の評議員である江川義雄氏に相談したところ、広島大学学長原田康夫氏(前耳鼻咽喉科教授)の御力を御借りしようとなったわけである。
 早速原田学長私宅を訪問し、これまでの経緯を申し上げ、広島大学医学部に移転のことをお願いしたところ、それならば、広島大学に持って来なさい、今年はちょうど、広大医学部創立五十年になるが、その記念事業の一つとして東洞碑を御引き受けしますという事であった。あまりにもスムーズに話がすすんだので、驚き且つ感謝申し上げた次第であった。
 そこで、安佐区可部町の中川和夫医師に相談し、安佐北区三入の立川雅高園芸師に工事の一切を依頼することになった。広大基礎棟前の場所に適しいデザインで新しい台石を探すこと一か月半後、ようやく相応しい自然石を見つけ出し、本年5月(平成7年)に移転改築出来たわけである。
 顕彰碑台石の銅板に刻む書を原田康夫学長にお願いしたところ、快く引き受けて下さった。
原田先生の雄潭な書「親試実験」は我々をはじめ後につづく医師学徒に何かを語りかけているようだった。

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