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2012年8月

腹証の歴史と意義

腹証の歴史と意義

一般に言われているように、漢方医学の診断法には望診、問診、問診、切診の四種がある。腹診はこのうちの切診に含まれる。
ところが、難経の六十一難に次のような条文がある。

『望んでこれを知る、これを神という。聞いてこれを知る、これを聖という。問うてこれをしる、これを工という。脈を切してこれを知る、これを巧という』

ここでは切診とは脈診のことになっている。腹診が抜けているのだ。では古典書物に腹診の記載がないのだろうか。確かに素問、霊枢、難経、傷寒論、金匱要略には腹診という文字はなし、特に素問と霊枢では望診と脈診が強調されている。

しかし素問の気厥論第三十七に「按腹」という文字がある。その他の篇にも、腹部の症状が記されていて、これを按じて云々という条文がある。

霊枢の邪気臓腑病形第四や百病始生第六十六にも「手を以てこれを按じ・・」などの文字が見える。

難経になるとさらにはっきり記されていて、十六難には腹診部位とその方法が記されている。(図1)

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『肝脈を得ればその外証は潔きを善のみ、面青く、善く怒る、その内証は、臍の左に動気有りこれを按ずれば堅くもしくは痛む』一部だが以上のような条文である。

また、五十五難と五十六難には積聚のことが記されている。(図2)

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八難には腎間の動悸、ということが記されている。(図3、4、5)これらの図は難経などを参考にして、和久田叔虎が作成したものである。

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これらの事から考えても、古代人が腹を診ていたことは間違いないと思う。ところが、現代に至まで、中国では腹診があまりなされていない。日本ではどうであったか。もちろん文献も残っていない。

大塚敬節は『腹診考』という論文の中で、腹診の歴史について詳しく論じている。それによると、日本では鍼灸師を中心として腹診が発達したようである。源流は禅僧である夢分斎あたりだが、その夢分斎に鍼を教えたのが多賀薬師別当法印見宜白行院という人である。したがって夢分斎はその時、腹診も同時に習った可能性が強い。ところが、この白行院も二、三の流儀を取捨して腹診法を創ったという。そのまえは不明である。

いずれにしても室町時代以後、素問、霊枢、難経の諸条文を論拠とした腹診が行なわれこれを大塚は難経系の腹診と言った。さまざまな古書物が残っている。

多くは腎間の動悸や虚里の動(胸の動悸)の重要性を強調し、十六難の腹診を基礎とした。また募穴を腹診部位として用いている。その意味では大同小異なのだが、腹部に配当された臓腑の診断部位には少しずつ違いがある。代表的なものに夢分流の臓腑配当図がある。

現在も一部の鍼灸師によって、夢分流やその他の腹診が行なわれている。しかし湯液古方派のような発展はしていない。
それには次のような理由が考えられる。

鍼灸の場合、胸腹部の経絡経穴が診断及び治療部位になる。そのためことさら腹診として強調する必要がなかったのではないか。

素問などに腹部の症状が記されてはいるが、傷寒、金匱のように治方の指示がない。そのため実証性に欠ける。いくら腹診しても、それが確かめられないのでは不安だ。そのため発展しにくかったと考える。

これは杉山和ーも指摘しているが、腹部の臓腑配当にこだわるあまり、経絡を無視する傾向にあった。経絡の虚実に結びつかない腹診では、いわゆる経絡治療には適さない。勢い脈診を強調することになった。

一方、傷寒論と金匱要略を中心とした腹診を、大塚は傷寒論系の腹診と言った。
これを提唱した先駆者は後藤艮山である。艮山は腹証だけでなく背証も診た。艮山についで傷寒論系の腹診を発明したのが、有名な吉益東洞である。

東洞は次のように言った。
『腹は生あるの本、故に百病はここに根ざす。これを以て、病を診するには必ず腹をうかがい、外証はこれにつぐ。証を先にして脈を先にせず、腹を先にして、証を先にせざるなり』

そうして、万病一毒説を唱えた。腹証はすべて毒の現われだ、というのである。

例えば、東洞は薬徴の中で、
『人参は心下痞堅、癌硬、支結を治する』と言った。

一般に補剤だと言われている人参まで、毒を治する薬にしてしまった。これはなぜなのか。もっとも、彼が主に用いたのは竹節人参ではあるが。

傷寒、金匱に記されている腹部症状には治方が指示されている。つまり実証性がある。だから患者を診て、心下痞があった時に人参を与えて治れば、人参は心下痞という毒を治したことになるのだ。

これは傷寒論系の腹診の発達した理由でもあるが、東洞はこのようにして、傷寒論に記されている腹部症状を確かめていったのであろう。

東洞がこのような方法で治療ができ、その後も腹診が発達してきた理由がもう一つある。それは傷寒論が外邪による病気の治方を記した書物だったからだ。

病気は精気の虚によって起こる。これは素問にも傷寒論にも通じる原則だ。だから経絡治療家は、まずどこが虚しているかを知ろうとする。湯液家でも、内藤希哲などは虚を補うことを強調している。これはもちろん大切な事で、虚を補う事から治療が始まる。

ところが外邪による病気は、虚があるから始まったのではあるが、どこかに熱がこもって実の状態になっていることが多い、胸脇苦満も少腹急結もそうである。この実の部分をいえば毒がある事になる。そうしてこの実は、はっきり腹証に現われ、虚は腹証に現われにくいという特長がある。そのため東洞流の毒を目標とした腹診が発展したのだ。

この実と虚の問題にもう少し触れておこう。例えば東洞は、芍薬の薬効を、『結実して拘撃するを主治する』と言っている。

荒木性次は芍薬が苦味であることを考え、『芍薬はよくたるみを引き締め、痛みを除くの効あり、結実も拘撃もたるみより来るものと見るべし』と言っている。

これを以てこれを考えれば、要するに薬効には二つの見方が出来ることになる。芍薬の場合で言えば。たるみを引き締める、といった場合は、病気を起こした本質の虚を補う薬、という見方になる。

結実を治するもの、と言えば、実の部分すなわち毒を除く薬だ、という見方になる。

結局のところ、薬物は虚と実を同時に治療しているのだ。このどちらが正しいかと考えるのではなく、両面の考え方を知っておく必要がある。ただし、鍼灸治境の場合は虚実を見極めて、補、潟の手技を使い分けなければならない。

実際の治療を考えた場合、虚を重要視すると実を見落とす可能性がある。逆に実ばかり眺めていると、補うことを忘れてひどい眼にあう。ただ言えることは、現代医学の病名がつくような病人は、実がどこかに隠れていることが多い。これを診っけないと治療効果が上りにくいし、失敗することがある。そうしてそれは、腹診によって発見されやすいのである。しかし、腹診をしない場合は虚を中心にして、各薬物はどこかの精気を補うものだ、と考えて研究するのがよい。

なお本書は腹診に脈診を加え、薬物の解説、病因、病理、病症などを述べて、虚と実の両面から解説している。また筆者(小川)の腹証には、四物湯のように虚を中心としたものもある。

さて腹診は東洞以後、その流れを汲む稲葉文礼とその門下である和久田叔虎によって『腹証奇覧」及び『腹証奇覧翼』が世に出され、大いに体裁を整えるに至った。

『腹証奇覧翼』の序文で小川恒得は次のように言つている。

『それ腹は生を保つの本にして、百病はここに根ざす。故に古方を修る者は、証を先にして脈を先にせず、腹を先にして証を先にせざるなり。しかして、腹状を主とするもの有れば、外証を主とするもの有り。医は病の応は脈診に在りと言う。しかれども、留飲家の積衆の脈のごときは、千状万形にして、或るものは無く、或るものは在りて、得て審らかにすべからず。脈の足らざること、以て証するにかくのごとし』

そうして現代に至るまで、腹診は東洋医学を学ぶ者にとって、必要かくべからざる診断法になっている。縁あって日本に生を受けた者であれば、まずマスターすべきは腹診ではないだろうか。

腹証、すなわち腹診によって得られる証は、手で触れることによって得られる素朴な情報の一つである。しかし、診断及び治療の上において、近代検査医学にないものがある。むしろ近代医学に寄与しうる多くの情報を持っている。

例えば、心筋硬塞は腹証から診るならば、ほとんどと言ってよいほど予測できる。すなわち、心下部の腹証を診れば、治すべき抵抗は完全に出来上がっている。それなのに心電図ばかり見ていたのでは、予知も予防も出来ないと言うのが現状だ。これは一種の悲劇である。

眼で見、耳で聞き、手で触れる世界を、もっと忠実に観察しなければならないと思う。
そうしないと、診断、治療のうえで、大きな盲点を無関心なままで放置することになってしまう。ただ腹診の方法など、問題が無いわけでは無しこれについては別の機会に述べる。
(小川新)

臨床 古今腹証新覧

産論・産論翼・読産論 (1977年) 産育全書―復刻版 (1977年)

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