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広島藩における医学起証文(起請文)について

広島藩における医学起証文(起請文)について

小川新(広島市 医師・日本医史学会会員)
広島医学32巻5号(昭和54年5月)

今や第二次大戦後の日本に於ける民主々義時代の学校教育の問題が、大きな社会問題になっているようだ。教育とは何かという最も基本的な問題について、考え直す時にきているように思う。

教育が善悪の問題を含めて政治によって支配されがちであった事は、昔から今に至るまで変わりはない。というのは、所謂権力サイドからの教育と被支配サイドからの教育について、もう一度じっくり考え直す必要があるように思うからである。

ただし、現今のように、どちらが権力をもっているのか分からないような時代に於いては、現在の行政政府と公務員とは必ずしも権力機構ではなく一方は民主という名の金力と、一方はまた、民主という名を大衆におしつけて、ジャーナリズムにアッピールする時代になっていることは、まことに歎かわしい次第である。

ただ、医学の世界は人類の福祉、国民の福祉、大衆の健康、一切の生物の生存という生命を尊重することが大前提になっている。今、私が公開に供しようとする資料は、必ずしもこれに応えうるものではないが、何等かの意味に於いて、少しでもその問題に対する示唆を与えることができれば幸甚と思っている次第である。

なお、広島医学史の大先輩石田憲吾先生が、一度この門人帳を調べてみたいということをいっておられながら果たされなかったので、その要望に応える意味に於いて小川家所蔵のものを公開し、解説を加えてみたいと思う。

■入門誓紙(第一巻)

●小川升運一世に対するもの(金創外科,阿蘭陀外科)(写真1・2)

敬白起請之事

一.貴老金瘡外科之方数年懇望候ニ付 今度御弟子ニ下シ成サレ候恭ケナク存ジ奉リ候以後者御相伝遊バサレ候儀他言御書物他見仕リ間敷ク候
一.自然ノ儀御在候ハバ書物焼捨テ申スベク候

右之条々相脊候者

恭茂(カタジケナクモ)伊勢天照大神惣而(ソウジテ)日本国中大小神祇氏八幡宮之御罰ヲ蒙リ申スベシ仍ツテ件(クダン)ノ如シ
  延宝五年己霜月十六日
(1677)
           吉益半卜(花押)
  小川升運老

(写真1)

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(写真2)

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  • 岸升甫: 寛文10年8月8(1670)       (写真2)
  • 伊藤吉左衛門: 延宝5年9月17日(1677)
  • 吉益半朴: 延宝5年己霜月16日(1677) (写真1)
  • 川井文右衛門: 同上
  • 龍神次郎太夫: 延宝7年卯月25日(1679)

●小川升運二世に対するもの

  • 矢渡道朴: 元禄15年6月4日(1702)
  • 小林角弥: 宝永4年正月27日(1707)

●小川敬元(蓬山)に対するもの(写真3)

起証文之事

一.私儀年来笠坊長庵様御門人に罷有リ候所 此度御門ニ下シ成サレ有リ難キ儀存ジ奉リ候 右ニ付キ自今 御門風規則違脊仕リ申ス間敷ク候 後日ノ為証文 件ノ如シ

   文政九年丙戊十一月廿四日
            山県郡上殿村 今田泰珉 弥隣(花押)

  医易塾 御頭取中様

(写真3)

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(写真4)

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  • 斎藤宣郷: 文化8年正月(1811)
  • 井関玄龍 雅武: 文政8年4月20日(1825)  (写真4)
  • 今田泰珉 弥隣: 文政9年11月24日(1826) (写真3)

■入門証状(第二巻)(写真5)

起証文之事

一.此度私儀御門下ニ被成下候儀奉存候 然ル上者一切御門風之儀相守可申 尤御家方御家書御伝授之儀他言他見仕間敷儀者勿論雖為親子兄弟非其人則決而相洩申間敷候

右之条々於相脊者
氏八幡就中
弥山三鬼神可蒙冥罰者也 仍而証状如件

(写真5)

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  • 北条清斎16才: 文政10年7月 (山県郡穴村来見鍛治所平二子
  • 井上三精: 初学医於豊岡道伯 従先生適於東部 文政11年3月入門(1828)
  • 山田養春: 山田寿軒之子、文政12年正月入門
  • 熊谷左門 宗敬 字菅子: (定京都) 文政12年5月10日
  • 長川亨哲20才: 文政12年9月8日(豊田郡大崎島東野村 碩庵男)
  • 岩田隆菴 名信義 字志道 35才: 文政13年正月7日(豊田郡大草村再造男)
  • 野坂立仙 16才: 文政13年正月17日(厳島野坂玄沢二男)
  • 金屋助次郎 19才: 文政13年正月28日(防州岩国本町本姓小池金屋久右衛門伜)
  • 山本建二44才: 文政13年8月12日(高宮郡中深川村 本姓山本 水上屋吉蔵伜)
  • 川田文調 直之: 天保2年10月12日(1831)、(防州岩国玖可郡伊蔭村 川田助之進伜)
  • 荒木大珉 正信: 天保4年7月18日(世羅郡川尻村医師荒木大成伜 二男)
  • 柄崎理助 義正31才: 天保5年4月4日(豊田郡沼田荘下南方村 組頭 百姓 柄崎茂助伜)
  • 天野屋修作 信愛18才: 天保5年4月28日(三上郡庄原町 社倉支配 天野屋敬八郎伜)
  • 小塚常太郎13才:  天保5年5月15日(広島胡町三次屋伊右衛門伜)
  • 松浦春斉28才:  天保5年12月12日(豊田郡小林村 百姓 殿垣内丈蔵次男)
  • 野津春哉17才:  天保6月2月(堀川町医師野津桃庵弟)
  • 松尾道順24才: 天保6年6月(世羅郡青水村医師松尾正軒伜)
  • 福光元悦 政秀46才: 天保7年8月(恵蘇郡木屋原村)
  • 香川秀策26才: 天保10年9月(山県郡戸谷村)
  • 宇都宮三省30才: 天保11年4月(高田郡上小原村 十郎左衛門伜)
  • 佐々木清之悉18才: 天保11年10月(沼田郡小河内村 庄三郎伜)

■第三巻

  • 宮地俊良実重18才: 天保13年7月25日(1842)(豊田郡沼田荘梨羽郷上北方邑百姓横山勇三郎二男、尾道東土々町唐津屋新三郎養子)
  • 水野元英光忠18才: 天保15年3月27日(佐伯郡原邑医師水野元龍伜)
  • 高沖左内28才: 天保15年7月10日(豊田郡宇山邑百姓平田良伜)
  • 岩田一貞18才: 天保15年11月2日(豊田郡大草村医師岩田隆庵伜)
  • 天野俊平*15才: 弘化3年4月22日(1846)(安芸郡奥海田村医師天野玄霞伜)
  • 園部宗謙 実名忠和20才: 弘化4年2月15日(園部三益伜)
  • 舟川松意利渉18才: 弘化4年3月10日
  • 佐竹玄白* :  弘化5年正月
  • 伊藤賢祐32才: 弘化5年正月(沼田郡伴村伊藤敬順二男)
  • 今井昌菴* 17才: 弘化5年2月20日(防州、|玖珂郡伊蔭村士今井権平伜三男)
  • 森元隣*  実名信重25才: 嘉永元年4月15日(1848) (森栄元伜)
  • 岩政祥策*18才: 嘉永5年8月29日(防州玖珂郡新庄巴 医師岩政厚順伜)
  • 長光文礼: 安政4年2月15日(1857)(世羅郡吉原村医師長光首礼伜)
  • 岩田文斎18才: 万延元年9月朔日(1860)(豊田郡大草村 岩田隆庵二男)
  • 今田言察* 23才: 元治元年甲子孟秋22日(1864)(芸州山県郡上殿河内邑 医師今田寿仙伜三男)
  • 白石道哉* 16才: 元治元年甲子秋25日(芸州高田郡三田邑 医師白石良益伜)
  • 高橋宗的63才: 慶応元年5月21日(1865)(加茂郡志和七条樺坂村 友堅伜)
  • 毛利元洞16才: 慶応元年9月18日(高田郡有留付 医師毛利元郁伜)
  • 高橋元貞31才: 慶応2年3月12日(加茂郡志和七条樺坂村 医師高橋宗的伜)
  • 水野泰亮18才:  (年号不明)2月2日 (佐伯郡原巴 医師水野元英伜)

       (注)*印は次の婦人科誓約之事lこ再出している。

●婦人科、小川道仙に対するもの(写真6)

誓約之事

一.御家婦人科之一流我等執心ニ依ッテ御伝授下シ成サレ候 師思浅カラズ存ジ奉リ候事
ー.病家ニ於イテ堅ク御家法ヲ格ク守リ貧富ヲ分タズ深切ニ療治ヲ施シ更ニ我意ヲ起シ或ハ他流混雑申ス間敷事
ー.御口授并ニ御手術他見他言者申スニ及バズ親類近友為リト雖モ猥リニ見セ申ス間敷事
一.堕胎之術者勿論他家ヨリ堕胎之法ヲ行ヒタル跡ニテハ決シテ療治致シ申ス間敷事
一.治術精練ノ上御請ケ下サレ候へバ思召之上御免許一軸并ニ御剪紙口伝授ケ下サル可ク候有リ難キ次第存ジ奉リ候 尤モ其ノ人熟習ニ堕シ許シ為サレ候儀ニ御座候者其節我等未熟ヲ顧ミズ其ノ人上達ヲ羨ミ我等先輩ナリト存ジ申ス間敷事
一.御免許指出レズ御門下并ニ御破門ノ輩且亦謂ナキ御流儀申立執リ行ヒ仕リ候者之レ有ル候者御家法穢サザル内急速相改メ禁治術ヲ御達申シ上グベク候 窺ズシテ我々門弟子執立申間敷候事

右六ケ条疎路ナク守持仕ル可ク候 若シ違脊ニ於テハ何等ノ咎罪為ト雖モ毛頭遺恨ヲ挟マズ畏奉ル可ク候者也 依ッテ誓文件ノ如シ

  嘉永六年正月
         佐伯郡原村水野元龍伜
            同姓元英(花押)光忠

   東水小川先生

(写真6

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  • 水野元英 光忠: 嘉永6年正月(佐伯郡原村水野元龍伜) (写真6)
  • 今井昌菴 重信: 嘉永6年正月(1853)(防州玖珂伊蔭村 今井権平伜)
  • 岩政祥策 ー亀: 嘉永6年正月(防州玖珂郡新庄邑 岩政厚順伜)
  • 天野俊平: 嘉永6年正月(安芸郡奥海田村 天野玄霞伜)
  • 森玄隣 信重: 嘉永6年正月(森栄元伜)
  • 佐竹玄丈 致遠: 嘉永6年2月
  • 白石道哉: 元治元年12月(1864)(芸州高田郡三田邑 白石良益伜)
  • 今田言察 照清: 元治元年12月(芸州山県郡上殿河内邑 今田寿仙伜)

考察

上記第二巻と第三巻には、誓約した先生の名前が記してない。今この当時の医学教育の状勢について、富士川游先生の日本医学史を参考としながら述べてみたい。

古くは大宝元年、唐制にならって大宝律令が制定せられ、医学教育の制度がたてられ、国医師及び専門科名、試験等について総合的医療行政が完備せられたが、この理想は間もなく廃頽したという。

その後、鎌倉、室町時代を経て、安土桃山時代、江戸時代初期に至るまで公的医学教育機関はなく、江戸中期、多紀元孝によって、明和2年(1765)神田佐久間町に躋寿館が創立されるまでは、教課を組織的に教授する所はなかったといわれている。

また、京都に於いて畑黄山が、天明元年(1781)医学院を創立したが、その頃から全国各藩に於いて相次いで設立せられたという。即ち、秋田藩・明徳館、金沢・明倫堂、和歌山、米沢、佐倉、徳島、福井、津、水戸等々が設立せられた。

広島藩に於いては、天明3年(1783)、京都の医学院創立の翌々年、藩学問所の開館、翌年全国に先がけて、藩医梅園太嶺が儒員として初めて医学を教授したが、藩が朱子学を奉ずる方針をとったため、古学派の梅園は1790年免ぜられたので、家塾を開いて子弟を教授するとになったという。

寛政5年(1793)、藩命により修業堂医学所が開設され、梅園太嶺は再び医学を講ずることになったというのである。しかし、文政11年(1828)廃止されるまでの35年間のみ藩の行政で医学教育が推進された。何故これが廃止されるに至ったかは明らかでない。

この資料に出てくる藩医小川敬元(恭意、蓬山)は、この修業堂医学所筋万端引受になっていたので、地方としては、このように門人が多かったのではないかと思う。梅園太嶺の卒後、この敬元が医学所の教頭を務めていたものと思われる。その点、加茂郡寺家村に於いて塾を聞き、医学生を含めた多くの子弟を育てた野坂完山、佐伯郡廿日市町の高木周沢が、文政10年(1827)から嘉永6年(1853)まで、約70名の医学生 を教育したということは、特筆大書さるべき功績ではないかと思う。

ここに体制側によって行なわれる学校教育と、無体制側によって行なわれる私塾教育の問題は、昔から現在に至るまで自然発生的なものとして多くの示唆を含んでいるようだ。一般に名の欲しいものは体制側に、実力派は私塾側にという傾向は今に於いてもかわることはないようだ。

初代升運の起証文は、いわば私塾的なもので、師弟の間の情熱はその文面及び書体に明らかに現われていて面白い。その点、第二、第三巻は巻頭に起証文を書いであるだけで、後は全部自らの署名のみであるが、道仙(東水)の婦人科のものは、医業所廃止後の私塾的なものに帰った時のものであり、その誓約書は一枚ずつ全部が自筆せられたものである。

次に婦人科誓約書について少し考察を加えてみたい。この道仙は、京都賀川家の門弟であったといわれるが、一貫町賀川正系の門人帳は現存しないし、その詳細は目下不明であるが、賀川流の初代玄悦の弟子であった片倉鶴陵(産科発蒙の著者)の門人に対する誓約書と大体似ているようだ。賀川流の誓約書の流れをくんだものは、大体このような様式であったのではないかと思われる。初代玄悦の産論をはじめ、産科学の分野に於いて国際的業績を挙げていた賀川流に於いても、科としては婦人科という名称になっており、今日のような産科という分類はなかったらしい。また、片倉鶴陵に於いても道仙に於いても、賀川流は凡て堕胎を禁止しているし、他人の行なったものの後始末をも禁じていたようだ。しかし、賀川流以外の他流に於いては、堕胎を禁じてはなかったのかもしれないが、現代の日本の実情をみるにつけても、まことに想像できないことのようだ。無制限に近い堕胎手術の弊害をみるにつけても、もっと真面白に考え直す必要があるようだ。

なお、二巻の終わりから三巻にわたる誓約書のうち天保7年から天保11年に至るまでのものは、誰の弟子であったのか一寸不明である。即ち、小川六代の医家、小川敬元の死亡は、天保6年7月11日になっており、次男養子、藩医元精(小川分家の祖)も天保7年、江戸で卒しておるからである。しかし、元精の跡目相続をした婦人科の道仙が、一般医学を引き続いて教育していたのではないかと思われる。敬元の子、元調(本家小川)が藩医となったのは弘化5年(1848)であるから三巻の弘化以降、慶応に至るまでの一般医学を志望するものは、この元調の弟子として入門したのかもしれない。同一人物の誓約書が二つあり、重複しているということは、道仙卒(元治元年・1864)に至るまでは、一般医学と併せて婦人科をも勉強した弟子があったのではないかと思われる。

【参考文献】

  1. 富土川游:日本医学史
  2. 日本産科叢書、第廿五産術奥義秘訣
  3. 杉立義一:賀川玄悦と賀川流産科の発展
  4. 賀川玄悦顕彰会、賀川玄悦没後二百年記念集
  5. 古賀十二郎:西洋医術伝来史
  6. 広島県史、近世資料編6
  7. 広島県医師会史
  8. 林保登:芸藩輯要
  9. 玉井源作:芸備先哲伝
  10. 江川義雄:日母広島県支部会報、昭和40年8月1日(第5号)

【注】

●小川升運(一世)正広:
生国広島、貞享5年6月1日[1688]卒68才、広島浅野家召し出され寛文5年[1665]。
《小川家譜より》「到東武初仕坪内惣兵衛殿
 、後仕土井遠江守殿、其後長崎御奉行甲斐荘喜右衛門※1殿与力相勤到長崎、有暇日吉永升庵※2為門人受外科医、皈東武後為剃髪改升運医術益盛隆而名於顕于世故加州中納言利常卿雖招呼之有故障再還芸陽玄徳院殿公(浅野光晟)応召拝領恩録賜五十石七人扶持」
(注 ※1甲斐荘喜右衛門=甲斐庄正述  /※2吉永升庵は相州稲葉美濃守正則侍医

●小川升運(二世)義広:
生国広島、享保11年7月24日[1726]卒48才、広島浅野家侍医。元禄14年[1701]楢林鎮山(新五兵衛)より阿蘭陀外科の免許状を授けられる。

●小川敬元(蓬山)意:
生国広島、天保6年7月11日[1835]卒73才、広島浅野家侍医、
 修業堂医学所教導筋万端引受。

●小川道仙深蔵:
生国広島、文久元年4月24日[1861]卒56才、広島浅野家侍医。

 

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