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矢数道明先生を偲ぶ

矢数道明先生を偲ぶ(付弔詩)

日本広島 小川新 
平成十四年立冬日靡慝庵にて謹んで誌す

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想い出づる事

 矢数道明先生は昭和の漢方復興の先達のおひとりです。
 復興、その有り様を眼にされながら、且つは喜び、且つは心を砕きつづけられた中軸の大御所を失ったことは、何としても悲しいことであります。
 バブル経済とともに泡沫肥大化した日本東洋医学会は大きな指導者を失い、迷路から抜け出す道が見えなくなりました。この行く末どうなるのでしょうか。

 先生は永年に亘り同志とともに、先の大戦中から日本、中国、韓国を含めた東アジア地域の漢方復興運動の協会、東亜医学協会を中心として国内外の漢方復興に尽力されてきました。
 西医一辺倒の政治的環境にあって、日本の代表者のひとりとして対外活動のみならず、国内の漢方医術医学の向上と発展に力を尽くされ、また金銭的な犠牲を負いながらも忍耐強く『東亜医学』にはじまり『漢方の臨床』誌を発刊せられ、また戦後には同士とともに日本東洋医学会を創立されました。

 娑婆の世界で、黙して我が身をかえりみず人を支える人間は少ないものです。人の為した功労の上に財、力、名を得る人が多いこの世で、先生はいつも目立たぬ所で隠れた徳を積む明治生まれの国士でありました。

 小生が四十年前、先生とお会いした時からこのように感じましたが、それ以来何時お会いしても、常に謙虚で誠実な御姿でありました。
 私のような漢方の後進からすると、傷寒・金匱を中心とする純粋古方派の一部に見られるような頑固さもなく、傷寒論の背景にある中国古典を大切にした後世派をも含めた柔軟で大なるものがあったように感じられ、私のように特定の師弟関係がなくとも受け入れる懐の広い先生でした。             
 自学自習し、古典を通して検証し、自らに問いかけながら温古創新をよしとする小生のごときは、この袂の深さが却って自由な雰囲気があり、(先生はどう思っていられたか分かりませんが)三蔵法師の手のひらので飛び跳ねる孫悟空のようなものでした。小生はいつもは東京にいないので、お叱りを受けるようなことは一切耳には入りませんでした。
 ある時、細野先生の御弟子で、広島在住の医師が先生の診療所を見学した時、訪れてみれば純粋な古方の処方が多いのに驚いたということです。世間では古方派に比較して、後世派一貫堂医学の粋の中で先生の古典医学を解釈していたようですが、それは大きな認識不足だと言っていました。それを聞いて小生は、道明先生ならば然もあらんと納得したものです。

 今は亡き先生と語ることはできませんので、小生の勝手な思い出を語ることになりますが、先生しばらく御許し下さい。

 先生に最初にお会いしたのは、約四十年前の日本東洋医学会が京都で行われた時でした。小生は頭痛症について、頚椎の骨変形の研究を含めた頭痛症150例の発表をしました。私としてはそれがこの学会の初舞台でした。壇上からさっさと降りて走るように会場を出ようとしたとき、後方から「君、君!」という声があるので驚いて振り向いてみれば、それが矢数先生でした。その研究を「漢方の臨床」誌に投稿してはどうかとお話になりました。「はい、ありがとうございます。書かせていただきます」と返事しました。この大先生に私の発表をお認め頂いたことを嬉しく感じ、早速やりかけの頭痛の症例150例の椎骨の変形と頭痛との関係の整理に入りましが、一週間ほどして過労により風邪がこじらせ自分の頭痛の為に論文の整理ができなくなりました。その中の興味ある症例として五苓散だけを取り上げて、やっと「漢方の臨床」誌に投稿したことを今だに憶えています。そして、掲載号をみると、当時の理事長相見三郎先生と私が同じ五苓散と頭痛というテーマになっていました。当時の編集者の気賀林一氏は、その編集後記の中に私の人間像をこのように書いておられました。“東洋医学界にニューフェースあらわる、ターザンに似た男”と。この表現には小生も思い当たることがあり、要するにとにかく素朴、粗野ということでしょうが、本来私は、世渡りの上手な外を飾った紳士風の都会人にはなるまいと青年時代から覚悟していましたので、この表現には満足した次第です。しかしこの中で、証の表現法についてかなり厳しい批評を述べておられました。

 約三十年前から日本の東洋医学界は、製薬会社としては当然の利益追求型経営戦略=簡便に薬を処方する術をマニュアル化し、一方でそこそこの権威者をつくり彼らを利用し販路を拡大=に多くの医師を巻き込みあるいは自ら巻き込まれ、烏合の衆の泡沫漢方の道を辿り『証』(仕様)のない漢方を助長するに至った。しかしこれは治療者たる医師らに専ら責任があるのです。このような状況のもと日本東洋医学会は肥大化していくが、学術内容は次第に低下し、心ある漢方家の憂慮する時代に突入し、本日のごとき凋落の歌が聞こえるようになってきました。憂国の士道明先生は先に憂い、そのことを予期しておられたのではないかと思われるのです。

 さて、四十年ほど前、大阪、神戸、広島、福岡などの薬系漢方家が中心となり合同勉強会をやろうということで「日本漢方交流会」がつくられ、その発会が広島で行われました。 日本東洋医学会の発足以来、医師の会員と共に、古典学術の方面において“地の塩”のごとく支えていた薬系漢方家が、何ら日本東洋医学会に造反することなく、薬系漢方家の立場を理解したもの同士が互いに切磋琢磨することを旨とするこの会に、矢数先生は深い理解を示され、発会を祝され先生お言葉の入った録音テープを気賀林一編集長にたくされ、広島大学の会場に送ってこられたのでした。
 また矢数先生には、この交流会発足後の運営についてまた特に法人化の事などでもご理解と関心を示していただいたことにみな勇気づけられ感謝しています。
 また後年、日本東洋医学会は日本医学会加入が承認されて以来、医師中心の学会の様相を呈し、さらに漢方薬の保険薬収載のこともあり、ますます医師中心の学会となり、薬系漢方家の存在は経済的にもまことに難渋せざるを得なくなってきていますが、この「日本漢方交流会」はこの様な時勢でこそ一層重要だと思っております。そしてまた、先生の一貫堂グループでは古典の証を大切にする勉強会が活発に継続されています。

 二十三年前に広島で発足した日本瘀血学会については、私のこの会発足の趣旨を非常に喜んでいただき、「瘀血研究」の第一巻号に載せられているように、貴重な祝辞をお寄せ下さいました。
 この日本瘀血学会の発足当初には、上京した機会には、よくこの会の存在の意味するところの重大さに気付いて一緒にやりましょう、手伝ってください、と学会幹部に頼んだものですが、、、。
 しかし曲がりなりにも古典的証を中心として、新しい科学を枠にとらわれず導入し、次第に発展してきました。

 歴史が示すように、中央政権に近いところで運営すればその時代は盛大になるでしょうが、とかく地方の情報は軽視あるいは無視され、また鋭い洞察、高い見識は失われていくものです。  
 例えば唐初時代、孫思邈によって編集された千金方には傷寒論が抜けていますが北宋の林億によって編集された千金要方においては傷寒論の処方を大幅に取り入れており、唐初には何故見逃されたかについて、「南方の諸師、秘して伝えず」といった意釈が付いているのです。それは、長安を中心に生きておれば南方諸氏の傷寒論医学の素晴らしさが伝わってこなかったからだと言っているのです。
 しかし古典医学を学習し臨床する者にとっては、都会田舎とか、百年二百年といった差異など問題にはならない。
 また、その時代の名声を求めて派閥を作るなどよくあることです。
 このような学会(瘀血学会)は世界で唯の一つであろうと自負し、小なりといえどもその存在意義を肝に据え、時の流れの中に来る時代を見据え、国際的視野に立って運営してまいりました。

 先生は人の世話はなさいますが、決して自らを表に出さない人格でありました。

 約十数年前のことでした。埼玉医大の宮川マリ女史が生きて活躍しておられる頃のことです。マリさんの師匠であり、また中医学のリーダーであった陳可翼先生(現政治協商会議委員)を紹介してもらい、翁維良(西安門医院副院長)と北京で会合し、国際瘀血学会の発足を相談し、第一回目を上海中医薬大学で開催することにしていましたが、その開催に際し、北京の命令的運営に対し、上海がその開催を断ってきたことがありました。その節、中国の国内事情が分からないので、矢数先生にその間の事情を報告し、電話で相談したところ、「それは北と南と言っても外国のようなものだよ」と言われたのには驚きました。「衛生部と大学との関係も外国みたいなものだよ」と言って教えていただきました。私はなるほど中国は医療界といえども党派閥・官僚閥・地域閥などの抗争の場であるのかと理解した次第です。北京、上海、成都、広州という四大中医薬大学間においては、ほとんど人事交流がないことをみてもお分かりいただけると思います。先生の貴重なアドバイスにより、無事国際瘀血学会を2回行うことができました。ある事情により中断いたしておりますが、いつでも再開する予定です。

 さて、上海で開催した国際伝統医学技術交流会議のことです。今回まで二回、上海中医薬大学で開催しましたが、それは四日間にわたり、中国の教授達が治療中の患者四人に会場に来てもらい、担当の教授により病歴、治療経過の説明をを行った後、この治療学に対し日中双方から感想意見を出し合い、最後に日本側から腹証をも行ない、その患者の治療をどのように行ったらよいかを意見具申するものですが、上海の大学学生や十数人近くの教授が集まって討論し合うものですが、これの開催についても、矢数先生や藤平先生にご相談しご意見を聞いたうえで開催したものです。

 次に、東亜医学協会主催の、生薬を用いた漢方医学会のことです。志しある人がこの学会に協賛し、次第に盛んになってまいりましたので、先生も喜んでおられたようですが、この会の開催については、これが始まる十年くらい前から寺師睦宗君といつも話し合っていたのです。伊藤清夫先生が、本気になって矢数道明先生の意図を具体化されたように推察しておりました。

 秦につづく漢からヤマトに伝わった医術「漢の方」は“腹をうかがう”ことで独自の発展をしてきました。

 先生の生前に成し得なかったことですが、いつか実現したいものと思っていることがあります。
 それは、腹証、胸腹証と人迎脈、少陰脈、寸関尺の手脈の関連性と弁証を、腹証に特に研鑽してこられた先生数人と公開講座あるいは討論を開催することです。その際、同一の患者を診察し、その弁証を互いに発表し合い、いかに治療医学に結びつけるかの方証相対の実際を、一切の既往歴、病歴、治療経過を術者には知らせないで、いわゆる不問診で行ってみたらよいのではないかと思っています。勿論、個人の互いの研鑽のためでもありまし、世のため人のために少々の時間己の立場を忘れる事も肝要かと思いますが。
 そして、その記録の一切は映像や文字として残し、これに対する意見をも加えて公表すれば、日本漢方の特徴もよく分かり、日本で中医学を学ぶ人、中国で中医学を学ぶ中医師達、教える教授達、日本で日本漢方を学ぶ先生方にとっても貴重なアドバイスとなるに違いないと考えています。

 現下の日本の腹証による弁証論治の程度では、いくら「腹証が日本漢方の特徴であります」と強弁したところで、西洋医学からも中国や欧米からも学ぶものはないと言われて、近未来では日本のみならず、世界からも日本独自の医方は顧みられられなくなる時が来ると予想されるのです。
 これでは近世の日本の腹証の先駆者、僧夢分、吉益東洞、「腹証奇覧」および「奇覧翼」の著者稲葉文礼、和久田叔虎、そして現代その腹証を継承し発展させた矢数先生、大塚先生、細野先生などの御恩に報いるどころか、むしろ御心配をかけ落胆させるようなこととなってはいないか。そのことに気付き、おわび申し上げなければならない状況になっているのではあるまいか。

 今や日本の国は、政治経済的には非常に透明性を持った時代となり、過去の虚飾の世界が次々と壊れ行き、新しいものが始まらなければ日本国はどうなるのかという危機感が日増しに強くなっております。将に日本漢方界は、最大の中心的長老を失い、俗悪贋方(漢方)が日本国に横溢し、五里霧中となるのではと憂慮いています。平成の『医界の鉄椎』をお書きになる憂国の士の出現を望むものです。

 矢数道明先生、長い間お世話様になりました。医の歴史、漢方医史を通じても、先生の功績は偉大であります。私は能なし日本国民の一人ではありますが、安楽浄土の先生が、少しでもお喜びになるような日本漢方界を新しく作って参りたいと思います。

 祇園精舎の鐘を聞きながら安らかにお休みください、そして時に応じては我々をご指導し、お守り下さい。

 世に有り難きは、その行でありその徳であります。

弔詩

 矢数道明先生の行を讚え徳を偲びつつ、、、

人の世を 救わんものと もろひとの
叡智の粋を 伝ふべく
身心(みこころ)捧げし その生命
道明らかにせん 永久(とわ)に輝き

   小川新
   平成十四年十一月立冬日 靡慝庵にて謹んで誌す (2002年11月)

■矢数道明先生のことをもっと知りたい・外部リンク《 「略伝矢数道明老師」述・真柳誠氏

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